平尾山荘物語

野村望東尼伝(改訂版)

2024/03/10


復元された平尾山荘&野村望東尼像


 福岡市内に定住して40年。恥ずかしながら、すぐ近くに保存されている貴重な「文化遺産」を見過ごしてきました。福岡市中央区平尾5丁目に建つ平尾山荘のことです。倒幕派と佐幕派が激突した江戸末期、ここ平尾山荘も重要な舞台となっていたのでした。
 山荘の住人だった野村望東尼(のむらぼうとうに・旧姓野村モト)は、大田垣蓮月・中山三屋と並ぶ江戸時代を代表する女流歌人です。特に、野村望東尼と中山三屋は、勤王女流歌人として討幕運動にも貢献した人物として有名でした。
 改めて平尾山荘とその周辺を歩きました。復元された山荘は、西鉄平尾駅と動・植物園で賑わう南公園の丁度中間地点にあたります。山荘の周辺でまず気がつくことは、坂道だらけの高級住宅街であること。一カ所たりとも、平らな道が見当たりません。
 主人公・望東尼が過ごした頃の平尾村は、古木に覆われた丘陵地帯であり、山を伐り拓いた典型的な農村地帯だったようです。手元の資料で調べると、当時の村の戸数は150戸、人口643人、田53町歩、畠17町余とあります。
 明治維新から遡ること十数年前、そんなのんびりした丘陵地帯に、藁葺き屋根の一軒家が建ちました。家の広さは、6畳・3畳・2畳の3間で、厨房と土間を合わせても10坪に満たないほどです。家の周りには雑木が密集していて、外からではそこに誰が住んでいるか伺うことは出来ません。そこが、野村望東尼が住処とした平尾山荘なのです。
 ボクはこれまで、身近に隠れている歴史的人物や伝説・民話を掘り起こすことに頑張ってきました。この度は、望東尼の勤王女流歌人としての生き方を、彼女が歩いた足跡を辿ることによって深掘りして参ろうと思います。

 最初からお読みいただくには、 第1部 仏門に入る へお進みください。ご意見・ご感想をお待ちします。

第8部 再会と別れ

長州上陸

 望東尼ら10人を乗せた帆掛け船は、波荒い玄界灘から穏やかな響灘に入った。更に馬韓海峡(関門海峡)を越えて小瀬戸へと進入していく。 「もうすぐですけん、辛抱してください」
 藤 四郎が、望東尼の背中をさすりながら励ました。慶応2年9月17日の夜中である。大政奉還の大号令まで、残すところ1年あまりである。


竹崎が浦


 船は竹崎が浦に入り、白石正一郎邸の浜門(裏門)に接岸した。丸一昼夜の船旅であった。白石正一郎は、下関で荷受け問屋を営む、界隈きっての豪商である。併せて尊王攘夷派の志士たちを助ける強力な後ろ盾にもなっていた。白石が世話した主な志士をあげるだけでも、西郷吉之助(隆盛)や高杉晋作、坂本龍馬、平野国臣などそうそうたる顔ぶれである。
 白石正一郎は、夜中であることも厭わず望東尼らを出迎えた。
「ようおいでなさった。尼どののことは、高杉さんから、くれぐれもよろしゅうと頼まれております。遠慮なさらず、まずはお身体をお労りください」
 主人は、日頃客人が使う離れの間に案内させた。望東尼は、この場にいるはずの人がいないことに気を揉んだ。平尾山荘で別れた高杉晋作のことである。この瞬間も、長州軍は馬関海峡を渡った小倉口で幕府軍と激戦中であった。長州藩の指揮を執っていた高杉晋作は、疲労と持病が重なって、急遽戦列を離れていた。それは、望東尼らが白石邸に到着する数日前のことであった。
 白石邸の女たちが、総動員で望東尼の入浴や着替えを手伝った。虫けらのような扱いを受けた姫島での獄中暮らしが、作り話ででもあったかのような待遇である。用意してくれた布団に横たわった途端、意識は遠い夢の世界に迷い込んでいく。気がつけば、陽は真上に上がっていた。枕元には藤 四郎が座っている。
「気がつかれましたか。相当にお疲れでしたね」
 望東尼が、2日間眠ったままであったことを、藤 四郎は告げた。
「ここはどこ?」
 下関の白石邸に着いたこともすっかり忘却の彼方に遠ざかっているようだ。姫島での島民との語らいや、土間に茣蓙一枚の寝床で過ごした一年間のこと。獄中に忍び込んでくる蜘蛛や蠅などとは、無益な殺生を避けながらうまく付き合ってきた。遠くに見える対岸の灯りや浮嶽の威張り腐ったようにして居座る姿が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
 その意識すら、ともすれば霞んでいく。大島での助作奪還の失敗や、屋敷の主人が親切に出迎えてくれたこと、女たちに体を洗ってもらったことも、かすかに記憶が蘇った。
「ここは、竹崎が浦(現下関市竹崎町)というところで、荷受け問屋を商う小倉屋さんのお屋敷ですよ。高杉さんの口利きで泊めてくださったのです。ご主人の白石さんは、ただ今遠方にお出かけだそうです」

高杉の看病

「それで、あなた方は、どのようにして私を助け出したのですか」
 藤 四郎は、望東尼を救い出すことに必死で、これまで肝心のことを本人に伝えていなかった。
「実はですね」と前置きして、高杉晋作の枕元に藤 四郎など実行部隊が集まったところから話し始めた。
「実行に移った我らは、浜崎(現唐津市)の対馬藩領内宿屋に集合しました。決行の6日前です」

※対馬藩浜崎領:対馬藩は、江戸時代に対馬全土と肥前国田代(現鳥栖市東部と基山)、および浜崎(現唐津市浜玉町浜崎)を治めていた。田代と浜崎は、対馬藩の飛び地である。 浜崎領は、幕府にとって江戸・大坂への積み出し港として重要な藩領の役目を担っていた。そのため、港から鏡山に向かって商家が連なっていて、帆船などを仲介する船問屋も2軒あった。

 多田莊蔵と対馬藩領内の同士が、10人以上乗船できる帆船を調達した。浜崎の港からは、天気さえよければ、姫島がはっきり見通せる位置にある。彼らは、島影がはっきり確認できる日を待って出帆した。

「高杉さんが、拙者ら6人に、ハハウエの救出作戦を指導なさった場所もこのお屋敷でした。その後、屋敷を離れて、ただ今桜山と言うところで療養なさっておられます」
「して、お病気の名は?」


高杉晋作療養の地

「肺を犯す恐ろしい病気です」
「ただ今は、おそばにどなたが?」
 聞きづらいことを聞いていると、望東尼自身は気づいていた。
「今一緒におられるのは、おうのさんとおっしゃるお方です。齢は22歳だと聞いています。医者のすすめで、桜山付近の『東行庵(とうぎょうあん)』にお住まいだそうです。東行とは、高杉さんの別の名前です」
 そこまで問うたところで、頭痛が激しくなって話は途切れた。獄中や脱獄の際の長船旅での疲れで寝込むことになり、高杉を訪ねる気力さえ失せかけていた。
 下関に着いて1ヶ月が経った10月中旬。平尾山荘で高杉と別れてから2年が経っている。 そんな折、白石邸に滞在する望東尼を珍客が訪ねてきた。来訪者は小田村文助と名乗る武士であった。対面してすぐには、誰だか思い出せない。
「太宰府の延寿王院で三条卿にお会いした折り…」
 そこまで言われて、記憶が蘇った。あれは、1年半ほど以前で、境内の梅が咲き始めた頃であった。延寿王院に幽閉中の三条実美卿に挨拶を済ませて表門を出たところで、見知らぬ武士に声をかけられた。男は長州藩士の小田村文助と名乗った。その時の武士である。
「本日は、我が藩主からの申し入れを伝えるべくお伺いしました」
 突然、「長州の藩主」と言われても、返答のしようがない。
「藩主より、御尼どのに特別の配慮をなすようにとの命を受けました故」
 藩主よりの配慮の命とは、「望東尼に相当の待遇を与えること。身の回りの世話をする娘をつけること」であった。地獄から天国へとはこういうことを指すのか。長州藩主の意図を完全に理解できないままに、ありがたくお受けすることにした。


楫取素彦

 小田村文助は、翌年9月、藩命により「楫取素彦(かとりもとひこ)」と改名している。高杉亡き後の楫取は、明治時代を代表する官僚であり政治家となって後世に名を残した。特に群馬県政(知事)として富岡製糸場を見事に立ち直らせた実績は、後の世まで語り継がれることになる。
「御尼どのから受けたご恩は、長州藩として決して忘れてはならないことです」

 下関上陸から1ヶ月が経った慶応2年9月末、望東尼はようやく疲れと頭痛から解放された。そこで思い切って、桜山に住む高杉を訪ねることにした。平尾山荘で見送ってから2年が経過している。もちろん、高杉に寄り添ううのとは初対面である。未だ娘盛りの面影を残す、色白で小柄な美人であった。
「お体の案配はいかがですか?」
 これからの暮らしのことなどを話題にしながら、場がほぐれていった。 高杉は、一通りの挨拶を済ました後、今後の暮らしについて話しだした。
「今住んでいる桜山には、僕の発案で昨年完成した招魂社があります。ここは、世を変えるために命を惜しまなかった奇兵隊諸君の霊魂を祀るためのお社です。奇兵隊の働きがあってはじめて、長州は幕府の悪性を正すまでの力を持ったのですからな。その陰には、福岡藩や対馬藩諸君の力添えがあったことを忘れてはいけないのです。楫取素彦君にも、その点をくれぐれもと申し伝えております」
 望東尼はその時、自分が高杉の看病に尽くすべきだと決心した。

高杉辞世の句

 時代は、江戸時代も終焉を迎えようとする、劇的な転換期にある。だが皮肉にも、倒幕の基礎を築いた高杉晋作の命は幾ばくもない。
 慶応3(1867)年。時代は、270年続いた德川幕府が崩壊する年に突入した。春本番を迎えた2月、長州藩主毛利敬親から望東尼に対して、「二人扶持」支給が正式に伝えられた。これで、異国の地で暮らしていける目途が立ったと一安心する。

去年今年(こぞことし)かなたこなたにまどひつつ徒(いたずら)にのみすぐす春かな

 そうなると、身の安全が保証された場所にいるこの身が、もったいないような気持ちにもなる。藤 四郎が得た情報では、孫の助作は大島ではなく、福岡城下の枡木屋の獄に縛られているらしいとのこと。
 望東尼は、白石邸を離れて入江和作邸の離れに移った。これも、高杉が声をかけてくれたものであった。

 日が経って、高杉は街中の妙蓮寺そばに建つ林算九郎宅の離れに移り住むことになった。高杉晋作、人生最終の居住地である。


高杉終焉の地

 望東尼は、高杉看護のために、林算九郎宅に泊まり込むことにした。それからは、うのと二人がかりの看病に明け暮れる毎日が続くことになる。望東尼の願いは「もうこれ以上、わたしに寂しい思いをさせないで」であった。
 しかし、願いも叶わず、最期の時がきた。望東尼は、高杉の口もとに耳を近づけた。 高杉の枯れ枝の如くか細くなった手に筆を載せさせ、辞世の句を詠んだ。


辞世の句(防府天満宮)

面白きこともなき世におもしろく…

 そこまで読み終えて、あとの句を望東尼に託した。

…すみなすものは心なりけり

「面白くもないこの世にあって、それでも面白く生きていくにはどうしたらよいものか」と望東尼に問うた。返ってきた句は、「周りがどうあろうと、あなたならどう思うかが大切なことですよ」と応えたのである。あなたは、こんなにボロボロになった身体で、よくぞこれまで頑張りました、と結んだのだった。
 慶応3年4月13日。王政復古の大号令(12月9日)まで残すところ9ヶ月の時である。高杉は大勢の同志に見守られて、静かに息を引き取った。享年29歳であった。倒幕と「大政奉還」の夢が叶うまで、残すところ僅か半年前である。そばで大泣きする同士や望東尼から離れて、愛人うのは、別室で一人すすり泣いていた。

 高杉は、黄泉の国へ旅立った。夜空のもと下関から小月を経てその先の吉田村まで、6里に及ぶ野辺の送りが始まった。このコースと墓所は、すべて高杉晋作本人の遺言によるものであった。参列者は3000人。全員が松明をかざしての行進となった。清水村の清水山山頂に棺が到着したのは、出発から5時間後の夜10時を過ぎていた。
 行列の進む先々で、高杉の死を悼む人々が見送った。望東尼も、列から遅れまいと必死でついていったが、途中で息切れしてしまった。高杉の死は、夫貞貫との永久の別れの儀式とも重なってしまう。足を引きずりながら戻った望東尼は、翌日から呆然と時を過ごす日々が続いた。夫貞貫の死から10年。この間に掛け替えのない人を、あちらの世に何人送り出したことか。そして、とうとう自分一人がこの世に取り残されてしまった。

 葬儀が終わるとうのは、愛するお方の供養のためにと仏門に入った。そしてしばらく経って、彼女が書き残した文がある。 それは、望東尼に対する各使用もない感情であった。


出家したうの(梅居尼)

 高杉は自分にとって「命の親様」である望東尼殿のために、部屋をきれいにしつらえ、何の不足もないようにしました。私は当時二十二、三歳でしたが、既に六十歳を越えていた望東尼殿を母親のように慕い、貴女さまの指示に従って高杉を看病致しました。最期は三人で住んでいましたが、望東尼さまが風邪を引いて寝込んだときなど、三階に望東尼どのが、一階には高杉が寝ていました。私は、高杉と望東尼どのが寝込んだまま詩と歌のやりとりをするので、階段を昇ったり降りたりして、さすがに足が疲れました。

 高杉の死後、望東尼は高杉夫人のマサに、次の歌を棺に入れてほしいと託した。

奥つ城(おくつき)のもとに吾が身はとどまれど別れて去(い)ぬる君をしぞ思う

 だがマサ夫人は、預かった歌を棺には入れなかった。夫人にも、他人には絶対に見せたくない意地のようなものが存在したのかもしれない。

つづく

 

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