No.017(q)

2021年12月05日

伊崎のカッパ浜五郎

不漁を助ける義理硬さ

 渡り鳥だよカッパ人生


伊崎ヶ浦移転記念の家族写真
この小川もむかしは立派な掘割だったそうです

一族郎党連れて伊崎ヶ浜へ

 おいら、浜五郎。人呼んで「浜ガッパ」と申します。江戸時代始めの頃。筑後の柳川から博多の浜に移り住んで来たときは、それは苦労しましたよ。今じゃおいらのことを知らねえものはいないんですがね。
 一族郎党10匹を引き連れて、野を越え山越えて博多湾の浜辺に着きました。こちらに来た頃には、博多湾にカッパなんて1匹もいませんでしたよ。子作り上手なカッパ族でやすから、おいらの子孫もどんどん増えましてね。今じゃ博多はおろか、日本中の川に縄張りを持つようになりました。だからよ、おいら浜五郎は、博多湾カッパの第1号ってわけさ。たどり着くと、まずは伊崎ヶ浦(いざきがうら)に居を構えましたよ。居なんて言やあかっこよく聞こえますがね、カッパが安心して寝れて、食料の小魚がいつでも手に入る環境さえあれば、そこは安住の地ってもんですよ。
 伊崎ヶ浦から西を望めば、遥か彼方の長垂あたりまで、美しい松林が連なっていました。そう、その間に地行浜とか百道浜があり、樋井川や室見川が流れ込む海との境目(河口)も見えましたね。


伊崎から西方望む


 住みついた頃の伊崎ヶ浦(いざきがうら)の港には、今日のような堤防なんて野暮なもんはありませんでした。この浜をすばらしい港にしようと考えたのは、当時藩主の座に就いた黒田の殿さんでしたね。その内(元和元年=1615年)に、長門国(ながとのくに=山口県)から一人の浪人がやってきましてね、漁師が魚を獲るための基地(港)を開きなさった。港の名前は、ふるさとに因んで「伊崎」なんてつけなさったそうです。
 それからというもの、伊崎ヶ浦には続々と漁師が集まってきました。鯛や鰆(さわら)など、つかみ取りできるほど豊漁が続いたっていいます。


柳川にいた頃、掘割で酒を酌み交わすカッパ

酒を欲しがる浜五郎

 話を明治の初めころにいたしましょうね。伊崎ヶ浦に住む義平衛さん、魚を釣ることでは誰にも負けません。たった一つだけある欠点は、時と場合をわきまえず酒を飲んでいることです。
 今日も今日とて、魚を求めて能古島の向こうの方まで艪を漕ぎました。釣り竿は忘れても、酒徳利だけはいつでも呑めるようにと、股に挟んで温めております。投げては釣れ、漕いでは網にかかる、その日は鰆(さわら)が獲れ放題でした。そうなりゃ、待ってましたと徳利の栓を抜きます。釣れた魚を舟上でさばいて、それが酒の肴って算段でさあ。そう、漁師って奴は、釣りたての魚を3枚におろすことだけは誰にも負けません。
 まだ陽は高くて、港に戻るには早すぎる。ちびりちびりと呑んでいますと、舟底をコツコツと叩く音がします。「だれだ?」と叫ぶと、変な生き物が顔を出しましたのさ。明らかに人間とは違う。体は大人になりかけの子供くらい、全身濃い緑色の皮膚に覆われています。それに頭には、へんちくりんな形のお皿を載せていますのさ。
「臭え、お前カッパか?」と問うと、「そうでやす」と答える。「名前は?」には、「浜五郎」とだけ。「臭えからあっち行け!」と拳骨を振り上げれば、「よいしょ」と後ろにひとっ飛び。「お願いがござんす」と、浜五郎が頭を下げた。「徳利の中の酒をおいらにも呑ませてくだせえ。できれば貴方とさしで…」だと。
「馬鹿野郎、俺は偉い人間さまだぞ。青臭いカッパなんぞと酒が呑めるか!」
 頭にきた義平衛さん、そばにあった櫂を振り回しながら、カッパを海中に落とし込みなさった。

不漁のときの保険

「カッパの野郎、懲りたかな」と独り言。安心して座り込ん途端に高いびき。気が付けば、彼方に夕べの灯(このころネオンサインなんてありません)がちらほら見える砂の上。あれが話題の博多の街かとのんびりしたこと。「おいらの舟は」とキョロキョロ見回せば、沖の方にポツンと置き去りになっているじゃありませんか。
 義平衛さん、得意の平泳ぎで近づき、やっとのことで愛舟に飛び乗った。するとなんてこった、先ほどのカッパの浜五郎が、舟板に寝そべってグーグー眠ってやがる。徳利を手繰り寄せると、中身は空っぽ。泣きたい心境をぐっとこらえて、殴りかかろうとしました。起き上がった浜五郎、「ごめんなさい、つい出来心で…」と、頭を下げます。
 さて、この始末どうつけようかと思案していると、浜五郎が逆提案してきた。
「見逃してくれたら、今後不漁が続くときは、おいらが命がけで旦那をお助けいたしやす」だと。そんな口約束を信じられるもんかと息巻いたが、今日のところは見逃してやることにした。暗い夜道じゃなく海路を伊崎ヶ浜へ。ギッチラコ、ギッチラコ。

地行浜の松

 相変わらず漁に出たら酒を飲み、酒を飲んでは街に出るの繰り返し。義平衛さんは漁師なのか本当はただの遊び人ではと、近所のおばさん方から白い目で見られておりました。そんな折、台風が博多湾を襲いました。何日も漁に出れない日が続きました。そうなれば、米も酒もそこを突きます。博多湾から突き出た薦川(こもがわ)の岸辺を行ったり来たり。川の魚を獲るためです。どっこい、川魚の知恵は海より遥かに優れていたのです。義平衛さんの技ではどうにもなりません。


伊崎漁港からのペイペイドーム


 泣きべそかいて帰りますと、縁側に鰯が5匹置いてあります。たったの5匹ですよ。この様子を松陰から見ていた浜五郎。「知らないんだなあの男。カッパって生き物は、人間と違って、約束したことは必ず守る賢い生き物だってことを。それに、一度酒友(さけとも)を振った男とは、絶対いっしょには呑まないってことも」。(完)

 浜五郎や義平衛さんが活躍した時代、現在のペイペイドームや福浜住宅街は未だ海の底でした。海岸線は蒙古襲来以来の防護垣や、分厚い松林で護られていました。海の中道はいまのように陸続きではなく、志賀島は完全な孤島でした。だから、義平衛さんみたいな漁師が漁をするには、入江でも良し玄界灘ならなお良しということになります。浜五郎が義平衛さんを見張っていた入江の向こうの地行浜の松も、最近まで残っていたそうです。だが、大規模な海岸線開発で今では見る影もありません。


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