No.011(l)

2021年10月17日

御子神社と安徳幼帝


御子神社本殿

 幸福橋を見下ろす場所で

 田島方面から樋井川を遡っていくと、「さいわい」という名の橋が架かっています。漢字で書くと「幸福橋」。高架の都市高速環状線が川を跨ぐあたりです。 橋のたもとの古木が立ち並ぶ森の中に、御子神社(みこじんじゃ)が祀られています。
 このお宮さんのご祭神は安徳天皇。言わずと知れた平清盛のお孫さんであり、壇ノ浦(関門海峡)でお祖母上(おばばうえ)に抱かれて入水した幼帝のことです。
 御子のお宮さんにお参りして得るご利益はというと、「安産と子供のお守り」。なるほど、「御子」とは、安徳天皇(幼帝)と合わせて子供の幸せを祈るという意味だったのか。川向こうに位置する「上長尾地区の氏神さま」ということで親しまれているそうです。
 御子神社(みこじんじゃ)の氏子が、樋井川を渡った別の区(南区)の皆さんだというのも、もう一つ腑に落ちません。少しづつ謎を解いていくことにいたしましょう。

  
城南区と南区を分ける幸福橋と西長住の標識

城南区にある神さまが南区民の氏神さまとは?

 御子神社(みこじんじゃ)の正式住所名は、福岡市城南区樋井川3丁目43-17です。しかし境内の掲示には南区上長尾地区の氏神さまとあります。城南区を過ぎて、幸福橋を渡った南区に立っている電柱の標識にも、確かに「南区西長住」と記されています。
 ここで言う城南区と南区の差は大した問題じゃありません。江戸時代から明治にかけて、そして今日まで。この地は早良郡内の単独の村であったり、福岡市に編入されたりしてややこしくなりましたが、その間も氏神さまと村民の関係は微動だにしなかったということなのですから。現に、城南区にあるお宮さんの境内にある歴史資料館は、上長尾の資料館ですよ。県道脇の御子神社を案内する石碑は、明らかに南区の上長尾地区に建っています。


後ろの樋井川の向こう岸に御子神社はある


上長尾の所在の変遷を記す村懐の碑

 上記「村懐の碑」の最後の一文が意味深長です。「町名改称により失われつつある由緒ある上長尾を惜しみ、その変遷を記し、後世に残すものである」のだと。城南区に所属するボクにとっては、南区の皆さんといつまでも仲良くやっていくために、御子神社の住所表記こそありがたい存在なのです。

安徳天皇はここにいたの?

 本サイト伝説紀行では、安徳天皇(幼帝)は、平清盛の死後祖母上(ばばうえ)(清盛の妻)に抱かれて、壇ノ浦の急流に消えた。それが歴史上の定説ですよね。第142話 安徳天皇終焉の地参照。

 神社の由緒を要約すると、御子神社と安徳天皇との因果は、次のようになりましょうか。

 時代ははっきりしないが、ある年の大晦日。安徳幼帝(天皇)は白馬に跨って上長尾の地を西に向かっていた。お住いの太宰府から糸島の吉井(糸島市二丈吉井)に赴く途中だった。幼帝は、従者の注意にも耳を貸さず、全速力で走り出した。
 当時の上長尾といえば、曲がりくねった川(樋井川)を挟んで、ぬかるみと雑木・雑竹が生い茂る荒野だった。そんな過酷な環境の中で、田畑を耕す百姓家が点在する山村でもあったのだ。
 従者の姿が後方に消えてしまったその時、疲れ切った愛馬が木の根に足を取られて転倒した。幼帝の体は宙に舞い、その後地面にたたきつけられた。従者に追いつかれたら、また嫌な小言を食わなければならない。必死で立ち上がったものの、二本の足がままならない。朦朧とした意識で歩き出したところに、そこな家がお正月用に置いていた注連縄(しめなわ)に足をとられた。前のめりになって、百姓家の井戸にまっさかさまに落ちてしまった。
 水音に気が付いた村人が駆けつけた時には、幼帝の心臓は完全に止まっていた。上長尾の村民らは、幼帝を助けられなかった悔悟の念から、この地に安徳天皇の霊を祭ることにした。それが、今日に続く御子神社の始まりである。氏子となった村民らが、その後も延々と守り続けた三つの掟がある。
一つは、 いかに馬が必要だといえども、白馬だけは絶対に飼ってはならない。
二つ、正月であっても、注連縄(しめなわ)を飾らない。
最後に、井戸を掘ることはまかりならぬ と。

 

その後の上長尾は?

 ご祭神の安徳天皇に守られて、上長尾の百姓さんたちは、細々ながらも平和に暮らしてきました。一方樋井川のお蔭で、お百姓さんたちは周囲の荒野を美田に変えました。今でも上長尾地区に残る、用水路の遺跡が何よりもそのことを証しているのです。


上長尾の水路

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