「吉原七人斬り」の呼称でお馴染みの事件である。
それは明治13年(1880年)7月23日午前10時のことだった。新吉原江戸町2丁目角町東側、杉戸屋なる遊郭に刀を提げた士族と思しき男が押し入り、2階に駆け上がるや初糸なる16歳の娼妓を斬りつけてこれを殺害。続けざまに遣り手のおかの、階下に降りて主の茂十郎、妓夫の政吉、新造のおかよ、禿(かむろ)のおしげと滅多矢鱈に斬りまくった。
「血刀を提げた侍が半狂乱のようになり、家の者を滅多矢鱈に斬りまくることがあるかも知れぬ」(古今亭志ん生『三軒長屋』より)
まさに『三軒長屋』のような事態が勃発したのだ。湯浴みをしていた23歳の娼妓小桜は仰天し、勇敢にも箒で応戦(東京各社撰抜新聞には「裸体のままで」とある)。後ろから叩かれて、不意を突かれた男は刀を取り落とす。これを掴むや小桜は脱兎の如く外に飛び出す。はて、これはしたり。残念顔の男は杉戸屋を後にしようとしたところで警官に取り囲まれてお縄となった次第である。死者2人、重傷2人、軽傷3人の大惨事だ。
男の名は徳永敏(28)。福島県の士族にて、現在は二等巡査だった。
徳永は3日前の7月20日に杉戸屋に登楼していた。灯籠見物に興じていたところを、妓夫太郎に無理矢理引き込まれたのだという。そして、勘定の際に当初の約束よりも高額を請求され、持ち合わせがないことをなじられた…。つまり、ボられたことの腹癒せだったのだ。
結局、武士の一分的なものが斟酌されて、徳永は除族の上、10年の徒刑が云い渡された。たしかに杉戸屋も悪質だよ。
(2009年5月22日/岸田裁月) |