坂本慶次郎は「稲妻強盗」の異名で知られている。今日は東、明日は西という神出鬼没ぶりからついた渾名だ。日に48里走ると噂された。
明治21年に強盗の罪で無期徒刑を下されて、北海道習治監に収容されたものの、明治28年9月に外役先から逃走し、以後、関東一円を荒し回った。拳銃か出刃包丁、日本刀で武装し、家人を傷つけることが多い、警察が把握しているだけでも被害件数45件、奪った金は700円余り。死者3人、重傷者13人にも上っていた。
慶二郎は奪った金で遊郭通いに明け暮れていたようだ。その際に自らを「伊藤正隆」と名乗り、伊藤博文の落とし胤だと称していたというから太々しい。博文公の落胤が強盗なんかするもんかい。
明治32年(1899年)2月14日に、埼玉県北葛飾郡幸手町で遂にお縄となった慶二郎は、同年10月6日に水戸裁判所にて死刑を宣告された。控訴審でも判決は覆らず、明治33年(1900年)2月17日に市ヶ谷監獄支署で絞首刑に処された。辞世の句は「悔ゆるとも罪の報いを逃げざれば、悪しき名をこそ後に残せり」だと伝えられている。
(2009年5月22日/岸田裁月) |