明治30年(1897年)4月27日、午前5時半頃、本郷区湯島3のお茶の水女子高等師範学校付属教育博物館前を流れる神田川の岸辺で、女性の全裸死体が発見された。年齢は40歳前後。死因は絞殺である。おまけに無惨にも顔面が13ケ所も切り刻まれている。これでは人相の識別は不可能だ。おそらく下手人は身元の割り出しを困難にするために、着衣を剥ぎ取り、顔面を切り刻んだのだろう。
特別戸口調査を実施した結果、6日目になってようやく被害者らしき女性を割り出した。牛込区若宮町の御世梅お此(ごせめおこの)40歳。遺体発見当日から行方不明になっており、体つきもよく似ていた。
早速、内縁の夫である松平紀義を呼び出して遺体の確認を求めたが、こいつはお此じゃないの一点張りだ。聞き込みにより内輪喧嘩が絶えなかった旨が明らかになると、警察は遺体がお此であると断定し、松平の逮捕に踏み切った。
些か強引のようにも思えるが、DNA鑑定など想像もつかない大昔のことである。治安を守るためにはある程度は已むを得ないのだろう。
結局、松平は大審院まで争ったものの、その過程で罪を認めたために一審の無期徒刑が確定した。自供によれば事のあらましは以下のようなものだったという。
松平とお此が出会ったのは明治28年2月頃のことである。意気投合した二人は共に暮らし始め、やがてお此が蓄えていた金で高利貸しを始めた。ところが、この回収がうまく行かず、次第に関係は悪化して行った。また、二人には共に連れ子はおり、これも喧嘩の種だったようだ。
事件当夜の5月26日は神楽坂善国寺の縁日で、子供たちは出店に遊びに出掛けていた。二人だけが家に残って一杯やっていたのである。すると、お此が酒の勢いでいつものように怒り始めた。
「あんたは自分の子供に小遣いを上げ過ぎるのよ!」
かなり勝ち気な女だったようだ。
「今日という今日は許さないから!」
やがてお此は小刀を振り回して松平に襲い掛かって来た。これをかわして揉み合いになると、お此が金玉を強く握りやがった。イテテテテ。よくもやってくれやがったな、このアマめ。カッとなった松平はお此の首をグッと締め、気がついたらグッタリとなっていた…というのだが、これはあくまでも加害者側の供述であり、真実であるか否かは判らない。
いずれにしても、子供たちが出掛けている間に殺害したことだけは確かである。そして、遺体に布団を掛けて寝ているように偽装して、子供たちが寝入るのを待って、遺体を折り畳んで荷物のように装い、人力車で運んで遺棄したのだ。
尤も、松平は「当初は下谷練塀町にある田代病院まで運ぼうとしたが、途中で車夫に死体を運んでいることを気づかれて、放り出されてしまったので、已むなく遺棄した」と供述しているが、おそらくこれも嘘だろう。顔面を切り刻むほど用意周到な男が不用意に死体を運ぶとは思えない。
なお、松平がいつ出所したのかは不明だが、出所後はなんと寄席に出ていたようだ。正岡容著『寄席囃子』にはこうある。
「昔々大正の頃、場末の浪花節の寄席へは、明治三十年代一世を驚倒させた例のお茶の水事件のおこの殺しの真犯人松平紀義が出演しては、しばしばその懺悔談を口演した。私が中学生だった大正中世にも根津あたりの町角で白地へ三葉葵の定紋いかめしく黄金色に印刷した一枚看板のポスターがひるがえっていたことを、今もまざまざ目先に思い浮かべることができる」
花井お梅も寄席に出ていたというから、当時はこういうのが「あり」だったのだろう。今では考えられないことだ。
また、同書にはこうもある。
「松平紀義は私がポスターを見てから間もなくまたまた何かの事件を起こして捕縛され寂しく獄死してしまった」
いったい何を仕出かしたのやら。さても懲りない男である。
(2009年5月18日/岸田裁月) |