ビリー&アン・ウッドワード
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1920年6月12日に生まれたウィリアム・ウッドワード・ジュニア(通称ビリー)は、ハノーバー銀行の代表取締役たるウィリアム・ウッドワード・シニアの唯一の息子だった。第二次大戦中は海軍に入隊し、勲章も授かっている。除隊後はハノーバー銀行の取締役に加わり、ニューヨーク社交界の人気者となった。「セレブ」という言葉が近頃は安売りされているが、本来ならば彼のような人物が「セレブリティー=名士」なのである。
そんな彼が1943年3月14日、5歳も年上の女優、アン・クローウェルと結婚した。これは高貴なるウッドワード家ではあり得ないことだった。
「カンザス生まれの田舎者と結婚する馬鹿がいますか!」
「5歳も年上の河原乞食ですよ! 私はこの結婚は認めません!」
全否定したのはビリーの母親、エリザベス(通称エルシー)だった。彼女はニューヨークの社交界を掌握していたので、アンが「セレブリティー」として受け入れられることは皆無に等しかった。
否。ウィンザー公爵夫人のウォリスだけはアン・ウッドワードを心良く受け入れた。アンの境遇が己れに似ていたからだろう。
ちなみに、ウィンザー公爵とは元英国王エドワード8世のことである。人妻のウォリスと不倫した挙げ句に、彼女と結婚するために、王位を弟で吃音に悩まされていたジョージ6世に投げ出しちゃったお方だ。この辺りの事情は映画『英国王のスピーチ』で描かれているので、御存知の方も多いかと思う。
ビリーとアンの夫婦仲については様々な噂がある。プレイボーイのビリーは浮気が絶えなかったとか、それを巡る夫婦喧嘩が絶えなかったとか。しかし、当初は仲睦まじかったことは間違いない。でなければ2人の息子、ウィリアム(通称ウッディ)とジェイムスに恵まれる筈がない。
さて、事件が起こったのは1955年10月30日未明のことである。前日の晩、ウッドワード夫妻はウィンザー公爵夫人主催の晩餐会に招かれていた。そこで夫妻はしきりに近所で頻発する侵入窃盗を話題にしていたという。
「うちにも不審者の足跡が残されていたの。それ以来、枕元に銃を備えるようにしたわ」
帰宅したのは午前1時。ウッドワード夫妻はそれぞれの寝室で就寝した。その後のことは当人たちにしか判らない。以下はアン・ウッドワードの証言に基づく記述である。
2時間後の午前3時頃、寝室にいたアンの愛犬、スロッピーが吠え始めた。
「えっ、なに? なに? なにがあったの?」
フロッピーはドアに向かって吠えている。やがてドアは静かに開いた。アンは傍らにあるショットガンを手に取り、人影に向けて発砲した。
人影の正体は夫のビリーだった。つまり、彼女は侵入者と間違えて、夫を殺害してしまったのである…。
この証言を額面通りに信じるのは土台無理な話である。いくらパニくっていたからとはいえ、相手が誰だか確認せずにショットガンを撃つかね? しかも屋内で。その上、この家には2人の息子もいたのだ。その人影が息子(長男は11歳なのでそこそこ大きい)である可能性を考えなかったのか?
ところが、アンはこの件で裁かれることはなかった。過失致死の罪にも問われなかった。その背景には、ウッドワード家の工作があったことが噂されている。つまり、スキャンダルを避けるために事件を揉み消したというのだ。
この話題に飛びついたのが、作家のトルーマン・カポーティだった。ニューヨークの社交界に知り合いが多かった彼は、アン・ウッドワードに関する噂を調べ上げ、それをそのまま『エスクワイア』誌に発表したのだ。1975年9月のことである(タイトルは『ラ・コート・バスク』。カポーティの死後に出版された遺作『叶えられた祈り』に収録されている)。
いやあ、酷い内容である。噂話だけに基づき「アンは離婚の危機にあったために、故意にビリーを殺害した」と断じている。綿密な取材に基づき『冷血』を書いた人の文章とはとても思えない。
しかし、『ラ・コート・バスク』はニューヨーク社交界の低俗さを暴くことが主眼だったようなので、根も歯もない噂話を積み上げることには意味があったと思われる。また、カポーティはかつてアン・ウッドワードに「チビのオカマ(little faggot)」と揶揄されたことがあったという。故に『ラ・コート・バスク』はカポーティのささやかな復讐だったのだろう。
ところが、アン・ウッドワードは「ささやかな復讐」どころか「致命的な復讐」と受け取ったようだ。『ラ・コート・バスク』が『エスクワイア』誌に掲載されるや否や、睡眠薬を多量に服用して自殺した。1975年10月9日のことである、
生前は不仲であった義母のエルシー・ウッドワードはこのようなコメントを残している。
「それはそれよ。彼女は息子を撃った。そして、トルーマンが彼女を殺した。一族がこのことにもう悩まされないことを望みますわ」
(Well, that’s that; she shot my son and Truman has just murdered her, and so now I suppose we don’t have to worry about that anymore.)
しかし、一族の悲劇はこれで終わらなかった。
まず、次男のジェイムスが投身自殺。1976年のことである。
次いで、長男のウッディも離婚を巡るトラブルゆえに1999年に自殺してしまう。かくしてビリー・ウッドワードの末裔は全滅してしまったのである。
(2012年4月11日/岸田裁月)
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