ジェフリー・ワイスは1988年8月8日、ミネソタ州ミネアポリスで、オジブウェ族(ネイティブ・アメリカン)の未婚のカップルの間に生まれた。父親のダリル・ルシアー・ジュニアは21歳、母親のジョアン・ワイスはわずか17歳だった。
ジェフリーが生まれた時、両親は既に別れていた。17歳の母親には生活力がなかったため、ジェフリーはひとまずダリルに引き取られ、2歳の時にジョアンに引き渡された。
1992年頃からジョアンはティモシー・デジャーレイトという男と同棲を始め、1995年には妹のダフネが、1997年には弟のセバスチャンが生まれた。カップルが籍を入れたのは1998年6月になってからだ。ティモシーは2人の我が子は可愛がったが、継子のジェフリーには冷たかったと伝えられている。
話は前後するが、ジョアンが結婚する1年前の1997年7月21日、ジェフリーの父親、ダリルが拳銃で自殺している。当時9歳のジェフリーは相当なショックを受けたようだ。
そして、1999年3月5日、母親のジョアンがトレーラートラックとの交通事故に巻き込まれ、脳に損傷を受けて植物状態になってしまう(運転していた彼女の従姉妹は死亡)。ジェフリーが11歳の時のことである。やがてティモシーがジョアンとの離婚を考え始めた(正式に離婚が成立したのは2004年5月)。居場所がなくなったジェフリーは、ミネソタ州レッドレイクで暮らす父親の両親に引き取られた。
いやはや、ここまで生い立ちが不幸だと口をあんぐりさせる他ないが、ジェフリーの不幸はこれに留まらなかった。父親の両親、つまり祖父と祖母も別居していたのだ。祖父(地元警察の巡査部長)が27歳も年下の女性とデキてしまっていたのである。まったくややこしい一家だなあ、おい。しかし、それでもジェフリーは祖母と2人の叔母、そして祖父とその愛人と親交を結び、両家を行ったり来たりしながらレッドレイク高校に進学した。
ところが、ここで待ち受けていたのは執拗なるイジメだった。ネイティブ・アメリカンである彼は、まず人種差別と立ち向かわなければならなかった。更に、体重110kgというその体格が嘲りの対象になった。「デブのノロマ」と笑われたのだ。彼は塞ぎ込み、2004年5月と6月に自殺未遂を起こしている。そして、これを機に抗鬱剤のプロザックを服用し始めた。犯行直前にはかなりの量を服用していたようである。
いつも黒い服を着て、黒いトレンチコートに身を包むジェフリーは、学内で次第に不気味に思われ始めていた。そして、ついにその日を迎えた。彼が16歳の時のことだった。
2005年3月21日、ジェフリーは就寝中の祖父のダリル・ルシアー・シニア(58)の頭に2発、胸に10発の銃弾を放って殺害した後、祖父の愛人たるミシェル・リー・シガナ(31)の頭に2発の銃弾を撃ち込んで射殺し、祖父の40口径の自動拳銃とショットガン、そして防弾チョッキを奪ってレッドレイク高校へと向かった。
校門前に到着したのは午後2時45分頃のことだった。ジェフリーはまず守衛のデリック・ブラン(28)の胸を撃ち抜き、死に至らしめた。その後、英語のクラスに向かった彼は、以下の6人を射殺し、5人に重傷を負わせた。
ネヴァ・ロジャース(62・英語の教師)
アリシア・ホワイト(15・生徒)
スーリーン・スティルデイ(15・生徒)
シャネル・ローズベアー(15・生徒)
チェイス・ルシアー(16・生徒・姓は同じだが祖父とは無関係)
ドゥウェイン・ルイス(15・生徒)
銃撃が繰り広げられた際、ジェフリーは笑っていたという。
間もなく武装警官数名が現場に駆けつけて、銃撃戦が4分間ほど繰り広げられた。やがてジェフリーは右腕と腹を負傷し、誰もいない教室に逃げ込むと、ショットガンを顎の下に当てて引き金を引いた。彼が死亡したために、その詳しい動機は判っていないが、まあ、不幸な生い立ちとイジメ、そして抗鬱剤プロザックの相乗作用であったことは間違いないだろう。
(2013年1月28日/岸田裁月) |