フランシス・スチュワート(43)の娘、ヘンリエッタがジョセフ・スクリヴナーと結婚したのは2年前のことである。以来、フランシスはロンドン南西部のチェルシーにある娘夫婦の家に同居していた。当初は家族円満だったが、初孫のヘンリーが産まれた辺りからジョセフとの間がギクシャクし始めた。フランシスは女性であるにも拘らずかなりの酒飲みで、そのことで揉めることが多くなったのだ。
「お母さん、うちには赤ん坊がいるんですよ。危ないですから、あまり飲まないで下さい」
それでもフランシスは何処吹く風で、相も変わらず酒を飲み続けた。そんな或る日、ジョセフの怒りが爆発した。
「お母さん! 昨日、酔った勢いで鶏小屋の扉を壊したでしょう!? どうして云うことを聞いてくれないんですか!?」
「あたしゃ壊してなんかいないわよ! 濡れ衣を着せないでちょうだい!」
「いいや、壊したのはあなたです! もう我慢出来ません! この家から出て行って下さい!」
その日の晩、彼女はまだ1歳の孫を人質に取って、こっそりと家出した。1874年4月28日のことである。
翌日、ジョセフはフランシスからの脅迫状を受け取った。
「私はヘンリーと共にテムズ川に身を投げます」
しかし、フランシスは身を投げることなく、2日後の5月1日、巡査により身柄を取り押さえられた。彼女はヘンリーを抱いていなかった。
「赤ん坊は何処だ!?」
この問いに彼女は答えようとはしなかった。
数日後、ヘンリーの遺体がテムズ川で船頭により発見された。ここで誰もが「卑劣だなー」と思うことだろう。孫を人質に取って、心中を宣言して脅迫したクセに、孫だけを殺して己れは生き存えたのかよ、と。ところが、フランシスの供述によれば、事情はこうなのだ。
「あれはアルバート橋を渡っている時でした。息が上がった私は橋の欄干に寄りかかりました。その時にうっかりしてヘンリーをテムズ川に落してしまったのです」
うっかりして落される立場としては堪ったもんじゃないが、これは事実なのだと思われる。人質たる孫を殺してしまっては、義理の息子への脅迫は成立しないからだ。本件は過失致死に該当する事例だと思われるのだが、結局、フランシス・スチュワートは殺人容疑で有罪となり、1874年6月29日に絞首刑により処刑された。
ちなみに、彼女は英国史上、孫殺しの罪で処刑された最初の女性であるそうな。
(2012年11月11日/岸田裁月)
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