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ラッセル・オブレムスキー
Russell Obremski (アメリカ)



ラッセル・オブレムスキー

 ラッセル・オブレムスキーは1945年、オレゴン州フォート・クラマスで生まれた。10歳の時に母親と死に別れたことが、彼の人生における最大の転機だったと思われる。1年後にクラマス・フォールズに住む母方の両親に引き取られたわけだが、それまでの間はアルコール中毒の継父による虐待の日々を送っていたのだ。

 彼の素行は次第に悪くなって行った。学校の窓ガラスを割る。女の子をナイフで脅す。猥褻なイタズラ電話を掛ける。ガソリンを盗む等々。挙げ句の果てに感化院に収容されたのは12歳の時だ。2ケ月後に釈放されるも、すぐさま小さな男の子を理由なくぶちのめして精神病院送りとなる。祖父母は孫の異常行動を癲癇か何かの発作かと思っていたようだ。しかし、実際には先天的なものではなく、シンナー中毒によるものだった。オブレムスキーはプラモデル用の接着剤を常に携帯し、吸引していたのである。

 退院後もオブレムスキーの素行は悪くなるばかりだった。傷害や窃盗などは日常茶飯事。少年院と娑婆を行ったり来たりの繰り返しだ。院から脱走したこともある。それでも微罪として数ケ月で娑婆に戻れた。ところが、1967年7月、22歳の時に20年の刑が云い渡された。14歳の少女を強姦した容疑で有罪になったのである。これには流石に応えただろうと思いきや、どういうわけか僅か14ケ月で仮釈放されてしまう。
 どぼじて?
 私はオレゴン州の司法制度については詳しくないので理由は判らないが、まあ、模範囚だったのだろうな。外ヅラがいいというか、猫をかぶっていたというか。長年の経験から獄中で好かれる術を身につけていたのだろう。
 だが、司法当局が仮釈放を認めたことは重大な間違いだったと云わざるを得ない。彼が仮釈放されなければ、尊き命が2つも(胎児も含めれば3つも)失われることはなかったからだ。


 それはオブレムスキーが仮釈放されてから5ケ月後の1969年2月1日、土曜日のことだった。彼は友人のドン・スローターと共に、オレゴン州ホワイト・シティの牧場に干し草を届けるためにトラックに乗り込んだ。ちなみに、彼が住むクラマス・フォールズからホワイト・シティまでは70マイル(112km)ほどの距離である。
 この配達仕事はスローターが請け負ったものだった。トラックもまた彼の所有物である。そして、その晩はホワイト・シティの隣町、メドフォードに住むクリフォード・ロウの家に泊まる予定だった。ロウはスローターの友人であったが、オブレムスキーとはあまり面識がなかった。

 道中半ばに差し掛かった頃、運転席上の棚に収納されていた22口径の拳銃が落下して暴発し、銃弾はスローターの右足を貫通した。オブレムスキーは直ちにメドフォードのプロヴィデンス病院に向かい、スローターを預けた後、ホワイト・シティで干し草を荷下ろしして、予定通りにクリフォード・ロウの家を訪ねた。
「実は道中でこんなことがあってね。大変だったよ」
「そりゃ大変だったなあ。まあ、お上がり。腹が減ってるだろう」
 ってなやりとりがあったと思う(あくまでも推測)。だが、ロウの心中は穏やかでなかったことは想像に難くない。なにしろロウの家には8歳から15歳までの5人の子供と、妊娠8ケ月の妻がいるのだ。そして、オブレムスキーの前科も知っていたのである。
「ドンが回復するまで、しばらくお邪魔してもいいかな?」
 今思えば、ロウがこれに応じたことが悪魔との契約だった。オブレムスキーという男は「決して家に入れてはいけない範疇の男」だったのだから。

 翌日の日曜日、オブレムスキーはトラックに乗って何処かに出掛けたが、何をしていたのかの詳細は判らない。
 そして、いよいよ問題の月曜日、1969年2月3日を迎える。クリフォード・ロウは仕事に出掛けなければならなかった。5人の子供たちも学校だ。心配なのは残された妻、ラヴェーナ・メイ・ロウである。
「あなた、大丈夫よ。それほど悪い人じゃないみたいだし」
「判った。何かあったら電話してくれ」
 クリフォード・ロウはその日に妻を残したことを一生後悔することになる。

 その日に何があったのか、具体的なことは判らない。何しろ被害者は死んでしまっているし、加害者は黙秘を貫いているからだ。唯一判っていることは、午後1時30分頃にドン・スローターが病院からロウ夫人に電話を掛けていることだ。
「あいつにトラックを運転させないでくれ」
 あいつとはもちろんオブレムスキーのことである。スローターは彼が飲んだくれのシンナー中毒であることを知っていたので、事故を起こすことを恐れたのだろう。トラックをオシャカにされてはオマンマの食い上げだ。
 それからしばらくして、ロウ家の隣人は男性の怒鳴り声を耳にした。続いて女性の叫び声。そして、4発の銃声らしき音…。しかし、隣人が警察に通報することはなかった。

 午後2時30分頃、病室の窓から外を眺めていたドン・スローターは、見覚えのある緑色のトラックを見咎めた。彼のトラックだった。
「あんちくしょう! 勝手に運転しやがって!」
 だが、動くことの出来ない彼にはどうしようもなかった。

 午後3時頃、ロウ家の末っ子で8歳のベッキーが帰宅した。そして、居間のソファで母親の無惨な遺体を発見した。頭部を銃で4発も撃たれていた。辺りは血の海だった。

 午後3時30分頃、赤いシボレー・インパラでショッピングセンターの駐車場に乗りつけたウィリアム・リッチーは、母親のベティ・アン・リッチーを車内に残して、彼女の処方箋を片手に薬局へと向かった。10分後に駐車場に戻ると、シボレー・インパラは母親もろとも消え失せていた。そばには緑色のトラックがエンジンをかけたままの状態で放置されていた。

 ほぼ同じ頃、クリフォード・ロウが職場から帰宅した。そして、我が家が警官で溢れ返ってことに唖然とした。最悪の出来事が起こってしまったことを彼は悟った。神を呪わずにはいられなかった。

 メドフォードから50kmほど離れたカーベリー・クリーク・ロードは田舎道で、車の往来は頻繁ではない。故に何人もの住人や作業者が赤いシボレー・インパラが通ったことを憶えていた。雑貨店「クーパー・ストア」の店員もその1人だ。インパラには男女2人が乗っているのが見えた。ところが、しばらくすると同じインパラが戻って来て、店の前で停車した。男は缶ビールを6本購入した。店員は訊ねた。
「先ほど、店の前を女性を乗せて通り過ぎませんでしたか?」
 すると、男は不快な表情を見せた後、こう答えた。
「あれはこの先に住んでいるベティ・ロドリゲスという女だ。クラマスから送り届けてやったんだ」
 しかし、この付近には「ベティ・ロドリゲス」という名の女性は住んでいなかった。

 翌日、「クーパー・ストア」からほど近いカーベリー・クリーク・ロード脇の斜面で、ベティ・アン・リッチーの全裸遺体が発見された。顔面を銃で撃たれていた。彼女の衣服は周囲に散乱していた。おそらく遺体と共に投げ落したのだろう。

 間もなくカリフォルニア州サンタクルーズから、2人のサーファーによる目撃証言が寄せられた。
「僕たちがヒッチハイクをしていると、赤いシボレー・インパラが停まってくれました。だけどバックシートが血みどろで、助手席には拳銃が置かれていたので、丁寧にお断わりしました」
 運転手はオブレムスキーと見て間違いない。直ちに赤いシボレー・インパラは緊急手配され、オブレムスキーはその日のうちに逮捕された。


 法廷において、弁護人は精神異常を理由に無罪を主張した。アルコールやシンナーの中毒ゆえに精神異常を来たし、是非弁別能力を欠くに至ったのだと。しかし、鑑定結果は「精神病質者には違いないが、是非弁別能力がないとまでは云えない」。かくして、ラッセル・オブレムスキーは2件の第1級殺人で有罪となり、終身刑を宣告された。

 と、ここで終わらないのがこの事件の面白いところ、と云って語弊があるならば言葉を選ぼう。興味深いところである。なんと24年後の1993年11月8日、またしてもオブレムスキーの仮釈放が認められてしまったのである。仮釈放中の殺人であったにも拘らず、5万人以上の反対署名があったにも拘らずにである。どうかしてるぜオレゴン州。何を考えているやらオレゴン州。遺族の怒りは増すばかり。住民の不安は増すばかり。
「いつか何かをやらかす筈だ」
 住民の予想はあっさりと的中した。

 3ケ月後の1994年2月14日、云うまでもないがバレンタイン・デーのこの日に、オブレムスキーはフィアンセに、というか、こんな男にフィアンセがいたことが驚きなのだが、とにかく、そのフィアンセに結婚を申し込んだ。彼女は快諾したという。ヒャッホーッと雄叫びを上げたオブレムスキーは、早速ビールで乾杯した。ところが、これは重大な仮釈放違反だった。24年前の殺人はアルコール等の中毒に由来するものなので、アルコールの摂取は堅く禁じられていたのだ。事実、彼はアンタブス(アルコール依存症の治療薬)の服用を義務づけられていた。そして、その副作用で気分が悪くなり、ゲーゲーと吐き出してしまったのである。
 この事実はやがて保護監察官の知るところとなった。オブレムスキーには矯正施設での27日間の拘禁が命じられた。

 オブレムスキーのトラブルはまだまだ終わらない。釈放後、間もなくの3月18日、今度は4歳の少女への性的虐待で逮捕されたのだ。どうやら、その性器を舐めたらしい。ちなみに、その少女はフィアンセの親類である。
 結局、被害者たる少女の証言が法廷に提出されなかったため、裁判では無罪になったが、先の飲酒の件が斟酌されて、オブレムスキーの仮釈放は取り消された。彼が娑婆に戻る可能性は、今のところはゼロであるらしいが油断は出来ない。いつか帰ってくるやも知れぬ。

(2012年3月27日/岸田裁月) 


参考資料

http://www.trutv.com/library/crime/notorious_murders/classics/russell_obremski/index.html
http://articles.latimes.com/1994-03-22/news/mn-37105_1_20-year-sentence
http://www.cbsnews.com/2100-18559_162-15717.html


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