西オーストラリア州の州都、パースでの出来事である。
本件の被害者、エセル・ブースは1906年10月、カトリックの尼僧により運営される母子生活支援施設で生まれた。母親のエリザベス・ブースは未婚だった。故に娘を養うために働かなければならない。彼女は尼僧に訊ねた。
「この辺りに手頃な託児所はありますか?」
紹介されたのがアリス・ミッチェルの託児所だった。
3ケ月後、家政婦の仕事を見つけたエリザベスは託児所を訪ねた。応対したのはふっくらとした親切そうな中年女性だった。料金は週につき5シリング。これに加えて初回は医師による検診と種痘の代金、10シリングが必要だという。エリザベスにとっては痛い出費だったが、可愛い娘のためである。快く支払い、その日から預かってもらった。
3日後、検診の結果が「健康そのもの」であることがエリザベスに告げられた。しかし、預けて以来、何日経っても娘に会わせてもらえなかった。会いに行くたびに今は寝ているの何だのと理由をつけて追い返された。不満に感じたエリザベスは次第に託児料を延滞し始めた。
アリス・ミッチェルがそのことを警察に相談しなければ事件は発覚しなかっただろう。相談を受けた巡査はどうしていいか判らず、上司のパトリック・オハロランに報告した。これを受けたオハロランは、
「託児所か。中には劣悪なものがあるそうだな。どれ、私がその女に会って、どんな状態なのか見て来よう」
と、アリスの家に踏み込んで、あまりの不潔さに仰天した。蠅が飛び交い、強烈な悪臭が漂っている。見れば赤子たちは己れの糞尿にまみれているではないか。床に這いつくばる赤子は、裏庭で飼われているニワトリの糞を口にしていた。よほど腹を空かしていたのだろう。いずれも赤子もガリガリだった。
オハロランは直ちに保健所職員の医師に協力を求めた。医師はすべての赤子を診断し、
「この子だけはおそらく助かりませんね。相当に深刻です」
その子がエセル・ブースだった。そして、医師の診断通り、2日後の1907年2月4日に病院で死亡した。
アリス・ミッチェルの過去を洗ったオハロランはまたしても仰天した。1902年12月から開設された彼女の託児所では、これまでに37人もの赤子が死亡していたのだ。故意に殺していたとしか思えない。
事実、衰弱死したエセル・ブースは、生まれた時は3600gだったが、死亡した時には3100gしかなかった。栄養をほとんど与えられていなかったのである。
かくしてアリス・ミッチェルは殺人容疑で起訴されたが、エセル・ブースの件を除けば証拠は何もない。故にエセルの件でのみ有罪となり、懲役5年が云い渡されるに留まる。納得の行かない結末である。
本件はアリス・ミッチェルの単独犯ではないことに留意するべきだろう。赤子たちの死亡診断書を書いていた医師はおそらく事情を知っていた筈だし、彼女を行政指導していた役人(女性で、アリスとは仲良しだったらしい)もまた然り。なんだか「原子力村」のようなものが連想される。つまり、本件は非嫡出子を喰い物にする複合的な犯罪だったのではないだろうか。
(2012年4月3日/岸田裁月)
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