ウェイン・ローは1974年11月14日、台湾の台南市で生まれた。父親は空軍パイロットで、母親はヴァイオリン奏者だった。
1981年、父親が国連大使に任命されたのを機に、一家はメリーランド州ロックヴィルに移住した。当時僅か7歳のウェインは、地元の楽団にヴァイオリン奏者として参加している。
この時点でウェインが、私なんかとは違うエリートであることが判る。
1983年、一家は一旦は台湾に帰国するが、やがてアメリカでの永住権を得て、1987年夏にモンタナ州ビリングスに移り住む。両親はこの地で中華料理店を経営していたようだ。
1991年4月、ウェイン・ローはマサチューセッツ州グレート・バリントンのバード大学サイモンズ・ロック校に進学した。この辺りから彼の歯車は狂い始めた。いや、既に狂っていたのかも知れない。彼は高圧的な父親を憎悪していた。わざわざ実家から遠い進学先を選んだのは、とにかく父親から離れたかったからなのだ。
キャンパスは彼を受け入れなかった。その発言があまりにも過激だったからだ。例えば、エイズを撲滅するためにホモセクシャルは隔離するべきだなどと論文に書いて顰蹙を買った。ユダヤ人にも批判的だった。彼自身がアメリカではマイノリティーであるにも拘らず、人種差別発言を繰り返したのである。これでは排除されても已むを得まい。しかし、エリートである彼にはこれは受け入れ難いことだった。
1992年12月14日午前10時20分頃、その日に買ったばかりのライフルで武装したウェインは、キャンパス内で銃を乱射し、以下の2人を殺害した。
ナクーナン・サエス(37・教授)
ガレン・ギブソン(18・学生)
他にも4人(うちの3人は学生)が重傷を負っている。間もなく降伏したウェインは2件の殺人で有罪となり、仮釈放なしの終身刑を宣告された。
(2012年12月17日/岸田裁月)
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