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フランシス・ノール
Frances Lydia Alice Knorr (オーストラリア)



フランシス・ノール

 1893年9月、ヴィクトリア州メルボルン近郊のブランズウィックでの出来事である。或る借家の居住者が裏庭で野菜を栽培しようと耕していたら、なんと赤子の遺体を掘り当ててしまって吃驚仰天。女の子で、首には紐が巻きつけられていた。殺害されたことは明白だ。

 この家の前の借り主はフランシス・ノールという24歳の女性だった。彼女はどういうわけかメルボルン周辺で頻繁に引っ越しを繰り返していた。彼女が住んでいたという別の借家の裏庭も念のために発掘すると、またしても赤子の遺体が2つも発見された。今度は共に男の子だった
 フランシスは幼い娘を女手一つで養うために「ベイビー・ファーム」を営んでいた。非嫡出子専門の託児所である。もうお判りだろう。預かった赤子をことごとく殺していたために、頻繁に引っ越さざるを得なかったのだ。

 フランシス・ノール(旧姓スウェーツ)は1868年12月10日、ロンドンで生まれた。19歳の時に単身でオーストラリアに渡り、シドニーで家政婦として働いていた。その時に出会ったのが夫のルドルフ・ノールである。ドイツ出身のウェイターだが、詐欺師としての顔も持っていた。
 間もなく娘が生まれるが、その直後にルドルフがケチな詐欺で逮捕され、18ケ月の刑を云い渡される。故にフランシスが別の男、エドワード・トンプソンのもとに走ったのも已むを得なかったのだろう。家計を援助してくれる男が必要だったのだ。
 ところが、そのエドワードにも捨てられて、彼女は一人で娘を育てなければならなくなった。そこで始めたのが「ベイビー・ファーム」だったというわけだ。そして、利益を追求する余りに赤子を殺していたのである。

 遺体が発見された頃、フランシスは釈放されたルドルフと共にシドニーで暮らしていた。2人目の子を身籠っており、間もなく臨月を迎えるという。これでは取り調べにならないな。捜査官は出産するまで、しばらく待たなければならなかった。

 出産後、メルボルンに移送されたフランシスは、拘置所の中から元愛人のエドワード・トンプソンに手紙を出した。それは自分のために無実の証拠を捏造して欲しいという内容だった。この手紙は法廷に証拠として提出された。エドワードの母親が「息子を巻き込むんじゃねえ」とばかりに警察に提供していたのである。
 エドワード宛ての手紙はフランシスにとっては大打撃だった。陪審員の心証に大きく影響したのだ。無罪の主張を変更せざるを得なかった。遺体を埋めた事実は認め、あくまでも自然死だったと申し立てたのだ。しかし、だとすれば赤子の首に巻かれた紐は何だったのか? 陪審員は納得しなかった。
 かくしてフランシス・ノールは殺人容疑で有罪となり、死刑を宣告された。

 獄中で彼女は信仰に目覚め、己れの罪を認めた。犠牲者に祈りを捧げ、賛美歌を歌って日々を送っていたという。処刑前日にはこのような声明を残している。

「私はあと僅か数時間で死ぬわけですが、この声明が公になることを強く望みます。私の堕落が同じような境遇の者への警告になるだけでなく、抑止力になることを期待しているのです」

 そして、翌朝の1894年1月15日午前10時、フランシスは絞首刑により処刑された。最後の言葉は以下の通り。

「神は私と共にいます。怖くはありません。私は大丈夫です。本当に大丈夫です!」

 大丈夫ではないことは明らかだ。死ぬ瞬間は、神の存在を信じるか否かに拘らず、誰しも怖いものだ。私自身が一度死にかけたことがあるので(胃潰瘍のための大量喀血)、これは断言できる。朦朧とした意識の中で「俺、このまま死ぬのかなあ」と思ったら猛烈に怖かったもの。

 ちなみに、フランシス・ノールは少なくとも13人の赤子を殺害したと見られている。しかし、余罪については告白することはなかった。

(2012年4月2日/岸田裁月) 


参考資料

http://en.wikipedia.org/wiki/Frances_Lydia_Alice_Knorr
http://www.trutv.com/library/crime/serial_killers/history/farmers/4.html
http://adb.anu.edu.au/biography/knorr-frances-lydia-alice-minnie-13030


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