キップランド・キンケル(通称キップ)は1982年8月30日、オレゴン州スプリングフィールドで生まれた。両親のウィリアム・キンケルとフェイスは共にスペイン語の教師だった。
キップが6歳の時、一家は研修休暇でスペインに1年間滞在した。キップは地元の小学校に入学したが、クラスの教師が英語を話せなかった。そのために彼はとてもハードな日々を送らなければならなかった(ちなみに、6歳年上の姉、クリスティンの教師は英語が話せたので、キップほどの苦労はせずに済んだ)。
帰国後、キップは故郷の小学校に編入するが、学力が劣るばかりか情緒的にも問題があった。そりゃそうだろう。言葉が判らぬままに1年間過ごして来たのだから。そこで両親は彼を1年生からやり直させることにした。
やがてキップは失読症を患っていることが発覚した。故に3年生になった時に特殊クラスに移動された。
キップはかなり早い時期から銃器や爆弾に興味を示していた。7年生の時には友人と共に爆弾の製造指南書を通信販売で入手している。そして、8年生の時には親に隠れて違法に拳銃を購入している。
キップが精神科医に通い始めたのはこの頃からである。処方されたSSRI系の抗鬱剤、プロザックのおかげで彼の精神状態は安定し始めていた。だが、ブロザックは副作用として自殺を誘発する可能性が指摘されていることを忘れてはならない。後のキップの犯行は、明らかに自殺の一環だったからだ。
父親のウィリアムは、当初はキップが銃を持つことに反対していたが、その精神状態が安定すると、息子の気休めになるならばとグロック製自動拳銃とルガー製セミオートマチック・ライフルを買い与えた。これが大きな間違いだった。精神を病んでいる者に銃を与えてはならないのだ。
1998年5月20日、サーストン高校に進学していたキップ(15)は、友人のコーリー・エワートからベレッタ製自動拳銃を110ドルで購入した。それは前日にエワートが友人の父親、スコット・キーニーから盗んだものだった。
キーニーはその日の朝、拳銃が盗まれたことを警察とサーストン高校に通報していた。彼は息子の友人が銃を盗んだに違いないと主張して、その可能性がある者のリストを警官に提出した。
キップの名前はリストの中にはなかったが、銃マニアとして知られていた彼もやがて警官に尋問された。彼は素直に答えた。
「その銃なら、僕のロッカーにあるものだと思います」
かくして、キップとコーリーは逮捕され、警察署に連行された。そして、指紋を取られ、写真を撮られて、公共施設での銃器の所持と、盗品の銃を売買した容疑で書類送検された。彼を取り調べた警官曰く、
「あの子は父親がどう思うかを心配していました。そして、自分の身がどうなるかを怖れていました」
キップの身柄は昼過ぎに父親に引き渡された。その後にいったい何が起こったのか? キップの供述によれば以下の通り。
午後3時半頃、ライフルに銃弾を装填した彼は、キッチンでコーヒーを飲む父親に背後から近づき、その後頭部に目掛けて発砲した。即死だった。遺体は浴室に運び、その上にシーツを掛けた。
母親が帰宅したのは午後6時頃だった。キップは彼女の後頭部に2発、顔面に3発、胸に1発の銃弾を撃ち込み、遺体をガレージに運ぶと、その上にシーツを掛けた。
どうして両親を殺す必要があったのか? キップ曰く、
「後に起こる騒動に巻き込みたくなかったんです」
彼はこの時点で既に学校襲撃を決意していたのだ。誰が憎いわけではない。ただ死ぬために学校襲撃を選んだのだ。
「自殺することがどうしても出来ませんでした」
だから、学校を襲撃すれば、誰かが殺してくれるだろうと思ったのだ。
ちなみに、姉のクリスティンはハワイの大学に進学していたために難を逃れた。
翌日の1998年5月21日、キップはライフルと2挺の拳銃、足元に隠したハンティング・ナイフで武装してサーストン高校へと向かった。その際に彼は、自宅のオーディオで映画『ロミオ+ジュリエット』のサウンドトラックの一曲『Liebestod』をエンドレスで再生した。それは後に捜査官が訪れた時にも流れていたという。両親への鎮魂歌のつもりだったのだろうか?
ともかく、キップは空き缶で作った手製の爆弾5つをブービートラップとして自宅に残し(その1つは母親の遺体の下に隠されていたという)、一人だけの戦場へと旅立った。目的は「殺されるため」なのだが。
銃器を隠すためにトレンチコートを身にまとったキップは、車を走らせて学校近くの路上に降り立ち、校内へと向かった。ライフルには50発の弾倉が装填されていた。うちの2発を校庭にいたベン・ウォーカー(16・後に病院で死亡)ともう一人の生徒に発砲した後、カフェテリアに侵入し、残りの48発を無差別に乱射した。これによりミカエル・ニコラウソン(17)が死亡し、24人が重傷を負った。
銃弾を撃ち尽くしたキップは新たな弾倉を装填しようとしたが、その隙に負傷した生徒の一人、ジェイコブ・ライカーに飛びつかれて床に倒れた。キップは拳銃を抜いて応戦するも、その時には何人もの生徒に押さえてつけられて敗北せざるを得なかった。かくしてキップの一人だけの戦争は、殺されることなく終わった。
その後、警察署に連行されたキップは、足元に隠していたナイフを取調官に突きつけて叫んだ。
「僕を殺せ! 僕を撃て!」
だが、キップは殺されなかった。催涙スプレーで撃退されたのだ。
結局、キップランド・キンケルは目的を遂げることなく、4件の殺人、及びその他諸々の罪で有罪となり、111年の刑が宣告された。仮釈放の可能性は認められていない。
(2013年1月7日/岸田裁月) |