1847年にスタッフォードシャー州で生まれたジョセフ・ジョーンズは、とにかく救貧院を恐れていた。まだ幼い頃、救貧院に収容された彼の祖母が4週間後に死亡したからだ。
「救貧院に入れられるぐらいなら死んだ方がマシだ」
これが彼の口癖だった。救貧院を恐れるが故に真面目に働き、やがて妻を娶り、バーミンガム近郊のクオリーバンクに家を買い、裕福とはいえないものの幸せな家庭を築いていた。
1880年、彼の妻が娘のエセルを産んだ直後に死亡した。それでも彼はめげることなく真面目に働き、男手一つでエセルを育て上げた。本来ならば『殺人博物館』などにエントリーされてはいけない人物である。
ところが、晩年の彼は些か横道に逸れ始めた。21歳になった娘をエドモンド・クラークに嫁として送り出したことに安心してしまったのか、頻繁にパブに通い、大酒を飲み、博打にうつつを抜かす日々を送り始めたのである。そして、遂には酒が原因で職を失うに至ったのだ。
それでもジョーンズはパブ通いをやめなかった。そして、1年も経つ頃には貯蓄を使い果たしてしまう。行き着く先はこの世で最も恐れる救貧院だ。死んでも行きたくない彼は、義子のクラークに相談した。
「判りました。私がお父さんの家を買いましょう。その後は我が家に同居して下さい。但し、もうパブ通いはほどほどにして下さいね」
ところが、ジョーンズはその後も頻繁にパブに通った。これまで真面目に暮らしていた男がいざ遊びを知ると、のめり込んでしまうというのはよくある話だ。落語の『明烏』がまさにそんな話である。真面目であったがために、その反動が大きいのだ。
遂に惨劇が引き起こされたのは1906年12月1日のことである。その日は土曜日で、エドモンド・クラークはサッカーの試合を観戦し、午後6時頃に帰宅した。妻のエセルと子供たちは買い物に出掛けていた。
午後8時頃、エセルたちは帰宅した。するとどうだろう。夫が血の海の中で倒れているではないか。頭蓋骨を鈍器で砕かれ、喉を耳から耳まで切り裂かれている。彼女の悲鳴を聞きつけた隣人たちが次第に集まり始めた。ジョーンズ翁は悪怯れるでもなく安楽椅子に座っている。
「わしがやったんだ。救貧院に入れられるぐらいなら吊るされる方がマシなんでね」
おそらく、クラークとの間でパブ通いを巡る激しい争いがあったのだろう。そして、クラークが「救貧院」の一言を口にした時に、ジョーンズの怒りが爆発したのである。
1907年3月26日、絞首刑により処刑されたジョセフ・ジョーンズは、処刑場に連行される際に、このように語ったと伝えられている。
「ここは忌々しい所だが、救貧院よりはマシだよ」
(This is a damned sight better than the workhouse.)
(2012年10月23日/岸田裁月)
|