1985年1月5日午前1時頃、ケント州ブロムリー近郊のケストンの路上で、肌の浅黒い女性が倒れているのが発見された。喉を刃物で切り裂かれている。直ちに病院に搬送され、九死に一生を得た次第である。
間もなく彼女の身元が割れた。マデュー・バクシュ(42)。その名前からしてインド系である。職業は医師で、夫のジョン・バクシュ(52)もまた2つの医院を経営する医師だった。
回復に向かいつつあるマデューは、集中治療室のベッドの上でうわごとを口にし始めた。そのほとんどが聞き取れなかったが、一つだけ聞き取れる単語があった。
「モルヒネ(morphine)」
本件と関係があるのだろうか? 念のために彼女の血液を採取して調べたところ、大量のモルヒネが投与されていることが判明した。
つまり犯人は、彼女にモルヒネを投与した上で喉を切り裂いたのである。通り魔的な犯行ではないことは明らかだ。また、マデューは、寒い夜であったにも拘らず、コートを着ていなかった。このことも通り魔の犯行ではないことを物語っている。彼女はおそらく車内でモルヒネを投与され、そして、遺棄されたのだ。
容疑者として浮上したのは、当然ながら夫のジョン・バクシュだった。彼はマデューに21万5千ポンドもの生命保険を掛けていたのだ。保険金殺人の線が濃厚である。しかも、2年前に先妻のルビーが旅先のスペインで死亡しているのだが、その際に9万ポンドの保険金を手にしている。これもまた彼の犯行ではなかったか? ルビーの遺体を掘り起こして検視解剖したところ、やはり大量のモルヒネが検出された。自然死などではない。明らかな殺人である。
かくして殺人と殺人未遂の容疑で起訴されたジョン・バクシュは、有罪となり終身刑と14年の刑を云い渡された。医師である彼が人の命を救うことでなく、奪うことに熱心になっていたとは…。残念な限りである。
(2012年10月1日/岸田裁月)
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