移転しました。https://www.madisons.jp/murder/text3/strydom.html

 

バーレンド・ストレイダム
Barend Hendrik Strydom (南アフリカ)



バーレンド・ストレイダム

 まずは犯行現場を御覧頂きたい。Googleマップで以下の住所を検索すると、まさにその場所が表示される。
「State Theatre, Church Street, Pretoria, Gauteng, South Africa」
 次に、航空写真に切り替えて頂きたい。ステイト・シアターの左側に広場がある。そこはかつてのアパルトヘイト時代にはストレイダム・スクエアと呼ばれていた。第6代南アフリカ連邦首相、ヨハネス・ストレイダムのモニュメントがあったからである。そして、まさにこの場所からバーレンド・ストレイダム(23)の大殺戮が始まったのである。

 彼は何故この場所を選んだのか? おそらくは名前の類似性(「Strijdom」と「Strydom」)とヨハネス・ストレイダムへの敬意の念からだろう。ヨハネス・ストレイダムはアパルトヘイトを推進した立役者だった。そして、バーレンド・ストレイダムもまた狂信的なアパルトヘイト支持者だったのだ。

 1988年11月15日午後3時頃、迷彩服に身を包んだストレイダムは、プレトリアの繁華街を通るプリンスロー・ストリート(Googleマップではステイト・シアターの右側の通り)に車を停めて、ストレイダム・スクエアへと向かった。そして、広場にいる人々のうち、黒人だけを標的にして発砲し始めたのである。或る者はハンバーガーを食べているところを撃たれた。また或る者は仮眠中を撃たれた。その際、ストレイダムはニヤニヤと笑っていたという。

 ストレイダムは広場に留まることなく、獲物を求めて移動し続けた。その理由を逮捕後にこのように述べている。
「このオペレーションにおいては移動し続けることが重要だった。その方が衝撃が大きい」
 チャーチ・ストリートを経てプリンスロー・ストリートを3ブロックほど北上したストレイダムは、銃弾を装填するために或る商店に入った。彼の狼藉をつぶさに見ていたサイモン・ミュコンデレリは、勇敢にも背後から近づいて、その肩を叩いて云った。
「お客様、あちらのお客様がお呼びです」
 ストレイダムが驚いて振り返るや否や、ミュコンデレリは銃を奪って彼に突きつけた。ストレイダムは云った。
「やるじゃないか」
 やがて到着した警察にストレイダムは逮捕された。死者7人、負傷者15人の大惨事だった。逮捕される際にストレイダムはこのように叫んだと伝えられている。
「俺はウィト・ウォルフの王だ!」
(I am the king of the Wit Wolf.)
「ウィト・ウォルフ(白い狼)」とは、ストレイダムの頭の中にしか存在しない架空の政治団体である。

 バーレンド・ストレイダムは1965年、プレトリアの極右の家庭に生まれた。警察官の父親は黒人を人と思っていなかった。理由は聖書に黒人が出て来ないからである。その教えを受け継いだストレイダムは、16歳の頃から多くの右翼団体に積極的に参加していた。
 成人後、父同様に警察官になったストレイダムは、黒人の首が切断された自動車事故に立ち会った際、その首を高々と掲げた写真を同僚に撮らせて「アフリカ民族会議は注意せよ!(ANC beware !)」なるキャプションを添えて警察の広報誌に載せようとした。このことが警察内部で問題となり、ストレイダムは辞職を余儀なくされた。彼が犯行を決意したのはこの直後だった。

 大殺戮の1週間前、ストレイダムはフォールトレッカー開拓者記念堂に出向き、祈りを捧げて神と対話した(と当人は信じている)。
「オペレーションを遂行してもよろしいでしょうか?」
 神からは何の返事もなかった。許可が出たと勘違いしたストレイダムは、その足でフェリーニヒング付近の貧民キャンプに出向いて1名を射殺、1名に重傷を負わせた。動機は「黒人を殺せるかどうか試したかったから」。良心の呵責なく殺すことが出来たので、大殺戮に及んだ次第である。このバカが。

 いわゆる確信犯という奴である。ストレイダムは己れの犯行をまったく悔いていなかった。父親も父親で「俺の息子はよくやった」と絶賛する始末。しかし、政治的に中立であるべき司法はそういうわけにも行かず、8件の殺人と16件の殺人未遂で有罪を評決、ストレイダムには死刑が宣告された。その際、判事はこのように述べている。
「あなたは国家の英雄に成りたかったのだろうが、結果はテロリスト以下だった。あなたは一般社会から永遠に隔離されなければならない」

 1990年、南アフリカ共和国は死刑を廃止したため、ストレイダムも1994年に釈放された。獄中で結婚した妻(信者)と今も円満に暮らしているようである。

(2011年1月10日/岸田裁月) 


参考資料

『THE ENCYCLOPEDIA OF MASS MURDER』BRIAN LANE & WILFRED GREGG(HEADLINE)
http://en.wikipedia.org/wiki/Barend_Strydom
http://www.conservapedia.com/Barend_Strydom
http://www.africacrime-mystery.co.za/books/fsac/chp25.htm


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