父親の多くは一人前になった息子を誇りに思うと同時に嫉妬するという。私の父親もそうだった。不器用な彼は器用に何でもこなす私を嫉妬していた。敵意を剥き出しにすることさえあった。ロバート・モーン・シニアもまたその一人だ。彼は殺人者として有名になった息子を嫉妬していた。そして、息子を越えるために、あろうことか自らも殺人に打って出たのである。全く愚かな話である。
この奇妙な物語の発端は1967年11月1日に遡る。スコットランドのダンディーにあるカトリック・スクールに1人の若者がショットガンを携えて押し入り、教師のナネット・ハンソン(26)と11人の生徒を人質に取って籠城したのだ。1時間30分後、15歳の少女が解放され、建物を取り囲む武装警官に犯人からのメッセージを伝えた。
「直ちに立ち去るようにと云ってます」
その30分後には残りの10人の生徒も解放された。実はそのうちの1人が犯人のガールフレンドで、彼女が皆を解放するように説得したのだ。犯人の名はロバート・モーン・ジュニア。精神医学上の問題を抱える19歳の青年だった。
間もなく1発の銃声が響き渡り、中から犯人が現れて、素直に銃を差し出した。ナネット・ハンソンは助からなかった。かくしてロバート・ジュニアは殺人及び2人の生徒に対する強姦の容疑で起訴されたわけだが、3年前から統合失調症を患っていたことが考慮されて、「スコットランドのブロードムア」と呼ばれている刑事犯専門の精神病院、カーステアズ州立病院に収容された。
ジュニアの物語はこれで終わらない。むしろここからが本番である。
その後の8年間、ジュニアは模範囚を演じていた。誰もが彼が更正と回復に向かいつつあると信じていた。ところがどっこい、その裏で彼はもう1人の囚人、トーマス・マカロックと共謀して脱走を企てていたのである。マカロックは「サンドイッチが不味かった」という理由だけでホテルの従業員2人を殺そうとした真性のサイコパスだ。
彼らは模範囚として得た自由を悪用して、徐々に必要なものを手に入れていた。その中には手製の斧やギャロット、そして変装用の口髭も含まれていたという。
計画が実行に移されたのは1976年11月30日のことである。彼らは当時、院内の演劇活動に参加していた。指導員はニール・マクレランただ1人。そのリハーサル中がまたとないチャンスと踏んだ2人は、マクレランが控える部屋に乱入すると、ジュニアが顔にペイント・スプレーを吹きかけ、マカロックが斧で叩き殺したのである。
キチガイのやることはえげつないなあ。手加減がない。
なお、この際に囚人の1人、イアン・シンプソンも巻き添えになっている。彼はガーデン・フォークで突き殺されていた。
縄梯子で塀を乗り越えた2人は、道路上に横たわった。恰も事故に遭ったかのように装って、車が通り掛るのを待ったのだ。ところが、現れたのはなんと巡回中のパトロール・カーだった。これは予想外だ。しかし、計画はもう曲げられない。警官だろうが容赦しない。2人の巡査を斧で斬りつけ、車を奪って一目散随徳寺。巡査の1人は一命を取り留めたが、ジョージ・タイラーは助からなかった。
その後、2度ほど車をお釈迦にし、代わりを奪い取りながらイングランド方面に向かった2人だったが、グレトナ辺りで追いつかれ、カーチェイスを繰り広げた挙げ句に、カーライルで遂にお縄となった次第である。
それまで精神病院にいたにも拘らず「責任能力に問題なし」として普通に裁かれたのは、処罰感情が勝った結果だろう。問題はあるが、まあ、仕方あるまい。こいつらを病院に戻せば、また逃げること必至なのだから。かくしてマカロックは3人の殺害で、ジュニアは巡査の殺害のみで裁かれて有罪となり、終身刑を云い渡された。その際に判事はこのように付言している。
「君たちは社会の脅威である。その筋の権威が頷かない限り、釈放されることはないだろう」
と、ここまでがジュニアの物語である。そして、ここから先がシニアの不可解な物語だ。
ロバート・モーン・シニアは息子の仕出かした数々の悪行について、世間に詫びるどころか自慢していたという。まさにこの親にしてこの子あり。こいつの頭も相当にイカれてる。
ところが、時が経つにつれて息子を羨ましく思うようになる。
「あいつは俺が育てたんだ。俺の方が偉いに決まっている。なのに、あいつの方が有名だ。ちくしょう。これはどういうわけだ? 間違ってないか?」
いや、間違ってるのはあんただって。
この極めて教養のない男が自ら殺人デビューを果たしたのは、息子の脱走から2年ほど後のことだった。
1978年12月29日、シニアは友人のビリーと共に、ダンディーのヒルタウン地区にあるジェーン・シンプソン(70)のフラットに招かれていた。他にはシンプソン夫人と仲のよいキャサリン・ミラーも同席していた。29歳の彼女は1週間前に結婚したばかりだった。
4人はお茶を嗜みながら大晦日をどう過ごすかについて会話に花を咲かせていた。そして、午後3時30分を回った頃、ビリーが「ちょっくら用事」と席を立った。シニアは思った。
「今がチャンスだ」
何のチャンスかって? もちろん、息子よりも有名になるチャンスである。
明けて1979年1月4日、シンプソン夫人のフラットで3つの遺体が発見された。
夫人はお気に入りの安楽椅子で、顔をしこたま殴られた後、ストッキングで絞殺されていた。
キャサリン・ミラーは寝室で、ラジオのコードで絞殺されていた。
そして、もう1体は、やはり12月29日から行方不明になっていたアグネス・ウォー(78)だった。彼女はシンプソン夫人の向かいの安楽椅子で、ストッキングで絞殺されていた。
物盗りでもない。性犯罪でもない。動機が皆目判らない。どうして彼女たちは殺されなければならなかったのか?
間もなく54歳のロバート・モーンが容疑者として浮上した。実は、犯行の当日にキャサリンを電話で呼び出したのは彼だったのだ。しかも、アグネス・ウォーは彼の叔母だったのである。
ロバート・モーンという名前に警察はピンと来た。
「2年前に同僚を殺した奴と同じ名前だ!」
調べてみて驚いた。あいつの親父だったのである。
逮捕されたモーンは一応は否定してみたが、数々の証言や証拠が彼の犯行であることを物語っていた。彼の翡翠の指輪には血が付着しており、その痕がシンプソン夫人の顔面にはっきりと残っていたのだ。しかし、彼の犯行だとしても、何でまた叔母まで殺害したのだろうか?
「3人殺さなければならなかったんだ。息子を越えるためには2人ではダメなんだよ」
はあ? 捜査官は呆れ返った。じゃ、なにかい? お前さんは2人殺した息子を見返すために3人殺したとでも云うんかい?
そうなのだ。シニアは息子以上の悪名を馳せるために3人殺さなければならなかったのだ。2人を殺した後に3人目を思案して、叔母のアグネス・ウォーを思いついたのだ。すぐそばに住んでいたためのとんだトバッチリだったのである。
かくして3件の殺人で有罪となったシニアは、息子と同様に終身刑を云い渡された。しかし、その悪名を楽しむ時間は短かった。1983年1月13日、アバディーンの刑務所で囚人仲間のアンソニー・カリーに刺し殺されてしまったからだ。女子供を殺した者は刑務所の中でも嫌われるという。シニアもまたその悪名ゆえに嫌われていたのだろう。いずれにしても、トンデモない親父がいたものである。
(2009年4月17日/岸田裁月) |