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マーリーン・レーンバーグ
Marlene Lehnberg (南アフリカ)



マーリーン・レーンバーグ

 1974年11月4日、ケープタウン近郊ベルヴィルの住宅街で、46歳の主婦スザンナ・ヴァン・デア・リンデが惨殺された。殺害したのは、まだ19歳のマーリーン・レーンバーグと、彼女に雇われた33歳の黒人マルチネス・チョーゴーだった。何やらワケがありそうなの事件である。

 事の発端は1972年2月、マーリーンがケープタウンの赤十字病院で受付として働き始めた頃に遡る。やがて彼女は46歳の整形外科主任、クリスチャン・ヴァン・デア・リンデに夢中になり、遂には不倫の関係に陥ってしまったのである。
 当時16歳のマーリーンは聡明で、魅力的な少女だった。おそらく引く手数多だったことだろう。そんな彼女が何でまた父親ほど歳の離れた男に惹かれたのだろうか?
 その答えは彼女の生い立ちにあった。彼女は極めて保守的且つ厳格な家庭で育った。父親は娘に対して終ぞ愛情を示したことがない。故に彼女はクリスに理想の父親像を見出したのである。
 クリスによれば、当初は親子のような関係だった。しかし、月日が流れるにつれて2人の仲は接近し、1年後の1973年4月には遂に結ばれるに至ったのである。

 2人の情事はその後も続いたが、1974年春には途絶えてしまう。誰かが2人の密会を目撃し、妻のスザンナにチクったのである。不粋なことをする奴がいたものだ。
 マーリーンは結婚を強く望んでいたが、クリスには妻や3人の子供たちと別れるつもりは毛頭なかった。彼にとっては単なる浮気に過ぎなかったのだ。そのことを知ったマーリーンは愕然とした。そして、次第に「あの女さえいなければ…」などと邪心を募らせていったのである。

 1974年9月、意を決したマーリーンは、スザンナに電話してクリスとの情事を暴露した。ところが、スザンナは挑発に乗ることなく、電話をただ切るばかり。10月には直接会って離婚を求めたが糠に釘、暖簾に腕押し。
「私はあの人とは別れません。子供たちのためです。あなたがあの人とどうなさろうと構いません。私は二の次で結構です」
 こうまで云われてしまっては、マーリーンには最後の手段しか残されていなかった。


 さて、ここでようやくマルチネス・チョーゴーが登場する。失業中のこの男には片足がなかった。交通事故で失ったのだ。マーリーンと出会ったのは義足の調整のために整形外科を訪れている時だった。この男なら利用できる。そう思った彼女は言葉巧みに近づいた。
「あなたがその気なら金になる仕事があるわよ」
「いったいどんな仕事ですか?」
「女を1人殺して欲しいの」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ! そんなことは出来ません! まっぴらごめんです!」
「ところであなた、前科はあるの?」
「は、はい、銃の不法所持で挙げられたことがあります」
「あら結構。そういう男を探していたのよ」

 結局、マルチネスは渋々ながらも承諾したのだが、実行に移すだけの勇気がない。そりゃそうだよ。義足なんだもの。逃走の際にハンデがある。しかし、そんなことはお構いなしのマーリーンは早く殺ってよと彼をせっつく。
「成功した暁には車を買ってやるからさあ」
 なぬ? 車とな? 俄然、やる気は増すが、それでもなかなか実行に移せないでいた。スザンナの家があるベルヴィルは白人居住区なのだ。見咎められたらひとたまりもない。しかし、そんなことはお構いなしのマーリーンはさっさと殺れよと彼をせっつく。
「判ったよ。成功したらヤラせてやるよ」
 なぬ? セックスとな? 俄然、やる気は倍増するが、どうにか家の前まで辿り着いたものの、勇気が出せずに素通りしてしまった。

「何なんだよ、お前は!」ということで、マーリーンが車で強引に連れて行くことになった。10月24日、嘘っこの用事をこさえて病院を休んだ彼女は、マルチネスを乗せてベルヴィルに向かうと、数ブロック手前で彼を降ろした。さっさと殺ってきなってなもんである。ところが、彼はすぐさまスザンナに見咎められて警察を呼ばれてしまう。直ちに駆けつけたポリ公にボコボコにされたマルチネスは、2度と白人居住区に立ち入らないよう厳重注意された上で解放されたというから、あな恐ろしやアパルトヘイト。

 この大失敗の数日後、もうこいつではダメだと思ったのか、マーリーンはロブ・ニューマンという24歳の学生に拳銃を貸してくれないかと頼み込み、併せて殺しも依頼した。もちろん彼は断ったが、間もなく彼の拳銃が紛失した。誰が盗んだのかは云うまでもない。


 1974年11月4日月曜日午前8時30分、マーリーンはマルチネスの自宅に車で乗りつけ、今や傀儡を化した哀れな黒人を叩き起こした。
「これからヨハネスブルグに行くんだけど、その前に寄るところがあるの。あなたにも来てもらうわ」
 そして、スザンナの家に辿り着いたのが午前9時。ここからは2人の供述は異なる。マーリーンによれば、ドアベルを鳴らしたのは自分だが、その後は車に戻り、マルチネスが仕事を終えるのを待っていた。ところが、マルチネスによれば、マーリーンは行動を共にしていたという。隣人によれば、その時間帯に白いフォード・アングリアが停まっているのを2度見ているが、いずれも中は無人だった。つまり、嘘をついているのはマーリーンなのだ。故にマルチネスが語ったところを記述する。
 マーリーンは中に押し入ると、拳銃で顎を殴ってスザンナを気絶させ、マルチネスに首を絞めるように命じた。何処からかハサミを2丁見つけた彼女は、1丁をマルチネスに手渡す。マルチネスの記憶によれば、彼は胸を3回刺したという。スザンナは7回刺されていたので、残りの4回はマーリーンの仕業ということになる。殺害の後、マーリーンはマルチネスに釘を刺した。
「もし警察に云ったら承知しないよ!」
 そして、彼を自宅まで送り届けると、その足でヨハネスブルグに逐電したのである。

 スザンナの遺体はその日の午後1時に娘によって発見された。真っ先に疑われたのは、近頃辺りをウロついていた足を引き摺る黒人だ。ところが、夫のクリスに愛人がいることが判明すると流れは変わった。かくしてマーリーンはマルチネス共々お縄になった次第である。

 一審では、双方ともに情状酌量の余地なしとして死刑判決が下されたが、控訴審ではマーリーンは禁固20年、マルチネスは15年の刑に減刑された。たしかに、マーリーンはともかく、マルチネスを死刑にするのは不憫である。

 なお、この事件後、マーリーンが己れの手記を新聞社に売ろうとしていたことが発覚すると、南アフリカでは断罪された犯罪者が己れの犯罪から利益を得ることを禁止する法律が制定された。この法律は一般に「マーリーン・レーンバーグ法」と呼ばれている。

(2009年2月13日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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