1953年6月半ば、ケベック州ガスペ近郊のヨーク・サントルでアメリカ人観光客が行方不明になった。ペンシルベニア州からピックアップ・トラックに乗ってやって来たユージン・リンゼイと息子のリチャード(17)、フレデリック・クラー(20)の3人である。彼らの旅の目的は熊狩りだった。
1ケ月後の7月15日、ユージン・リンゼイの遺体が町から60kmも離れた森の中で発見された。遺体は熊に喰い荒らされており、死因を特定することは出来なかった。
8日後の7月23日、ユージンの遺体発見現場から4kmほど離れた場所でリチャードとフレデリックの遺体が発見された。彼らもまた同様に熊に喰い荒らされていた。
現場に散乱していた衣服に銃で撃たれた痕跡が認められたことから、本件は事故ではなく殺人事件と断定された。そして、間もなく一人の男が容疑者として逮捕された。ウィルベール・コフィン。地元で木の伐採や石油の試掘をしている37歳の男だった。彼はまた副業として、アメリカから来たハンターたちのガイドをしていた。そして、被害者の3人と一緒にトラックに乗り込むところをガソリン・スタンドで目撃されていた。
事件後のコフィンは、それまで金欠で喘いでいたにも拘らず、急に金回りがよくなり、溜まっていたツケを清算していた。また、彼は被害者の所持品をいくつか隠し持っていた。その旨を問われて、彼は盗んだことは認めた。だが、殺していないの一点張りだった。
すべてが状況証拠だった。にも拘らずコフィンが殺人容疑で有罪となり、死刑を宣告された背景には政治的な陰謀があったとする説がある。つまり、観光が主な収入源である田舎町にとって事件を長引かせることは命取りになる。故にコフィンはスピード解決するためのスケープゴートにされたというのだ。あり得ない話ではない。事実、法廷には弁護側の証人は一人も出廷しなかった。否。それどころか被告たるコフィン自身も証言することを認められなかったのである。
結局、ウィルベール・コフィンは1956年2月10日に絞首刑により処刑された。しかし、処刑するべきではなかったとの意見が今日の多数派である。たしかに彼は灰色だが、クロと断定するだけの証拠がなかったのだ。そして、本件を機に死刑を疑問視する気運が高まり、遂にはカナダ全土で死刑が廃止された。1976年7月14日のことである。
(2011年5月16日/岸田裁月) |