「レイルウェイ・スナイパー」として知られるルディ・ブレイデルの犯行の期間は長い。1963年に始まり78年まで続いた。犠牲者は7人。しかし、ブレイデルは最初の4件については決して認めようとはしなかった。
シカゴの鉄道機関士の息子として生まれたブレイデルは鉄道を愛していた。
「大きくなったらパパのように機関士になるんだ」
朝鮮戦争では軍用列車に配属された。そして、帰国後は父と同じ「ロック・アイランド・アンド・パシフィック鉄道」に就職し、シカゴ郊外ナイルズに赴任した。
ところが、1959年に鉄道業務の拠点がインディアナ州エルクハートに移転されてしまう。ナイルズの従業員たちはもちろん反対したが、叶わずに解雇されてしまう。ブレイデルもまたその1人だった。
ブレイデルはどうにか他の鉄道会社「インディアナ・ハーバー・ベルト・ライン鉄道」の職を得るが、それは機関士としてではなかった。この時に嘗めた辛酸は彼の中で熟成され、やがて爆発の時を迎えるのだった。
1963年8月3日、インディアナ州ハモンドの「ハーバー・ベルト・ライン」の操車場で、機関士のロイ・ボトーフと助手のポール・オーヴァストリートの遺体が発見された。両名は共に貨物列車の運転室で、22口径の銃で撃たれていた。物盗りでもない。怨恨も考えにくい。動機が全く見えない中でFBIも捜査には乗り出したが、犯人は杳として知れなかった。
狙撃者が次に現れたのは5年後の1968年8月6日のことだった。エルクハートの操車場で機関士のジョン・マーシャルが列車に乗り込んだ途端に、待ち伏せしていた何者かにショットガンで撃たれたのだ。このたびも警察は如何なる手掛かりも得られなかった。
一方、ブレイデルはというと、1971年にエルクハートの線路上で同僚のエンジニアを銃撃して逮捕されている。どうしてこの時に警察は先の事件との関連を調べなかったのか不思議でならないが、とにかくブレイデルは5年の刑を云い渡されて服役する。彼が仮釈放されたのは18ケ月後のことだった。鉄道会社に復職を願い出たが、叶う筈はなかった。
1976年4月5日、機関士のジェイムス・マックローリーは運転席に座って発車に備えていた。と、その時に何者かにショットガンで頭を撃たれた。即死だったことは云うまでもない。
この時にはさすがにブレイデルが疑われた。しかし、しょっぴくだけの証拠がない。彼は警察の監視下に置かれた。何か仕出かすのを待つより他なかったのだ。
1978年1月、ブレイデルは遂にお縄となった。但し、殺人の容疑ではない。既決重罪犯でありながら銃を購入したために逮捕されたのだ。そして11ケ月の刑が下された。併せて一連の銃撃事件についても取調べが行われたが、警察はやはり確証を得ることが出来なかった。
釈放後、ブレイデルは早々に最後の襲撃に打って出た。1978年12月31日大晦日、ミシガン州ジャクソンの操車場で車掌のウィリアム・グラクと信号手のロバート・ブレイク、機関助手のチャールズ・バートンにショットガンを発砲し、死に至らしめたのである。しかし、このたびもブレイデルを犯行に結びつける証拠に欠けていた。
3ケ月後、全くの偶然から証拠が見つかった。ハイカーのグループがジャクソンの公園に遺棄されていたショットガンを発見したのだ。弾道検査の結果、それは凶器に間違いなかった。そして、登録番号からブレイデルが所有者であることが明らかになった。かくして彼は16年目にしてようやく殺人容疑で逮捕されたのである。1979年3月22日のことである。
当初、ブレイデルはジャクソンでの犯行を認めていたが、法廷では供述を翻し、自白は強要によるものだったと主張した。また、ショットガンに関しては「名前も知らぬ男に譲った」などと抜かしやがったのには驚いた。こんな主張が通る筈もなく、3件の殺人で有罪となり、終身刑を云い渡された。
なお、この後、ブレイデルは手続上の不備を理由に再審に持ち込んだが、結果は変わらなかった。否。仮釈放の可能性を否定されたので、却って重くなってしまった。そして、残りの4件については一切認めることなく、2006年11月16日に獄死した。
(2009年4月6日/岸田裁月) |