人は誰でも何かしらに依存している。私の場合は酒と煙草だ。毎日欠かすことはない。睡眠薬を飲まないと眠れないという人もいる。ヴェルマの場合は精神安定剤と抗鬱薬だった。毎日しこたま服用していた。そして、それが不足すると小切手を偽造し、遂には人を殺めるに至ったのである。
ヴェルマ・バーフィールド(旧姓ブラード)は1932年10月23日、ノースカロライナ州サンプソン郡に生まれた。彼女を含む9人の兄弟は父親のマーフィー・ブラードに虐待されて育った。その多くが後にアルコールや薬物の常習者になったという。また、ヴェルマは13歳の時からから父親に犯されていたとの指摘もある(真偽は不明)。諸悪の根源はこの父親であることは云うまでもないだろう。
17歳の時、ヴェルマは恋人のトーマス・バークと駆け落ちする。父親から逃げるためにはこの方法しかなかったのだ。その後の11年間は幸せそのものだった。2人の子宝にも恵まれ、アメリカの典型的な中流家庭の暮らしを満喫していた。
雲行きがおかしくなり始めたのはヴェルマが28歳の時である。子宮を摘出しなければならなくなったのだ。私はもう女ではない。そう思うと辛かった。彼女が精神安定剤を常用し始めたのはこの頃からだ。
間もなく更なる悲劇が家族を襲う。トーマスが交通事故に遭い、おまけに失業してしまうのだ。失意のトーマスは酒に溺れ、ヴェルマは腰痛に悩まされながらも一人で家計を支えなければならなかった。昼間はレジで、夜は紡績工場で。終わりのない無限地獄の始まりである。やがて夫のDVがこれに加わる。精神安定剤の量は日増しに増えて行った。
転機を迎えたのは1965年4月のことである。酔い潰れたトーマスは、おそらく煙草の火を消さなかったのだろう。マットレスに燃え移り、そのために窒息死したのである。但し、この件についてもヴェルマの関与を疑う向きもある。彼女にはトーマスを殺す動機があった。例え事故死しなくても、いずれ殺されていたかも知れない。
この頃のヴェルマは完全に薬物中毒になっていた。薬の残りが少なくなると不安で堪らないのだ。方々の医者を渡り歩き、薬の処方箋を集めて回った。家の中は薬瓶でいっぱいだ。四六時中ボーッとしていて、今日が何曜日なのか、今が何時なのかさえ判らなかったという。
1970年8月、ヴェルマは元公務員のジェニングス・バーフィールドと再婚する。愛が芽生えたからではない。薬を買うための金づるが必要だったからだ。しかし、この結婚は長くは続かなかった。50代後半のジェニングスは心臓病を患っており、翌年の3月にはポックリ逝ってしまったからだ。この件に関してはヴェルマは全くのシロである。
ジェニングスの死後、ヴェルマは繰り返し自殺を試みている。薬物を大量摂取しては病院に担ぎ込まれたのだ。1971年4月には父親が亡くなった。あんなに憎かった父親だが、今となっては愛おしい。ヴェルマは大切なものを2つも失ってしまった。
薬物への依存はますます深刻になって行った。心配した子供たちが薬を隠すと、彼女は食ってかかったという。
「薬がないと生きて行けないのよ! どうして判ってくれないの!? 母さんに死ねっていうの!? あんたに殺される筋合いはないわ! 頼むから放っといてちょうだい!」
そんなヴェルマが小切手偽造のかどで逮捕されたのは1973年3月のことである。彼女が服用する薬の代金はとっくの昔に収入を上回っていた。この日が来るのは時間の問題だったのだ。
保護観察処分に付されたヴェルマは母親のリリアン・ブラードと同居する。しかし、薬物中毒は相変わらずだ。彼女には薬の代金が必要だった。そこで母親の名を騙って、町金融から1400ドルを借り受ける。もう止まらない止められない。リリアンが急逝したのは「ヴェルマには注意せよ」と家族に号令を掛けた直後だった。ヴェルマが入れたコーラを飲んだ後に吐き気に襲われ、数日後に死亡したのである。1975年1月のことである。
間もなくヴェルマは小切手偽造のかどで再逮捕され、6ケ月間服役する。出所後は元の木阿弥。再び薬漬けの生活に戻って行った。
出所後、ランバートンの介護施設で介護人としての職を得たヴェルマは、主にドリー・エドワーズの世話をしていた。そして、その甥のスチュアート・テイラーと懇意になり、結婚を申し込まれる。ところが、この男も前の夫と同様に大酒飲みで酒乱、おまけに別れた妻とも密会を続けていたのだ。そのことを知ったヴェルマは愕然とした。ドリーの病状が悪化したのはその直後のことである。突然の胃痛に襲われて急逝したのだ。
ヴェルマが次に世話したジョン・リーの命も短かった。その小切手を偽造していたヴェルマが発覚を恐れる余りにアリの駆除剤、すなわち砒素を盛ったのだ。そして1976年6月に死亡。しかし、医師は「胃腸炎」と診断し、ヴェルマが疑われることはなかった。
次の犠牲者は婚約者のスチュアート・テイラーだった。その頃にはヴェルマが彼の小切手を偽装したことがバレて、2人の関係は険悪になっていた(その金はヴェルマの子供たちが返済したようだ)。1978年2月3日に彼が急逝した時、真っ先に疑われたのがヴェルマだった。彼女が砒素を盛ったに違いない。ところが、ヴェルマはその罪を決して認めようとはしなかった。
警察に尋問された翌日、ヴェルマは息子のロニーに電話を掛けた。
「母さんがスチュアートを殺したってみんなが云うのよ」
「みんなって誰のことだい?」
「…警察よ」
ロニーは仰天した。
「母さんの仕業なのか? 母さんがスチュアートを?」
「母さんがそんなこと、するわけないでしょ」
ロニーは早速、警察署に出向き、事の次第の報告を受ける。スチュアートが殺されたことは間違いない。犯人は母さん以外に見当たらない。その犯行を確信したロニーは、母のもとへと走った。
「母さん、今、警察で話を聞いて来た。僕は母さんより警察を信じるよ」
ヴェルマは泣き出してしまった。そりゃ泣くよな。息子にこんなことを面と向かって云われたら。
「さあ、一緒に警察に行こう」
かくして息子の説得により、ヴェルマは犯行を自供したのである。
裁判を待つ間、ヴェルマは「神の啓示を受けた」として、真に後悔しているようだった。しかし、法廷では「薬を手に入れるためにお金が必要だった」ことを強調し、点数を稼ぐことは出来なかった。陪審員が評決に至るまで1時間とかからず、その日のうちに死刑判決が下された。
刑務所の中でヴェルマは積極的に女囚たちの相談役となり、母親のように慕われていたという。そうすることで神に仕えていると考えていたようだ。そのこともあって助命嘆願の運動が持ち上がったが、その声は届かずに、1984年11月2日に薬物注射により処刑された。女性を処刑するのはアメリカでは22年ぶりだった。また、薬物注射により処刑された女性は彼女が初めてである。
(2009年4月12日/岸田裁月) |