1974年12月30日、ニョーヨーク州オレアン。17歳のアンソニー・バーバロは弟にこう告げて家を出た。
「射撃に出掛けたと母さんに伝えてくれ」
(Tell mom I went target shooting.)
優等生のトニーはオレアン高校の射撃部に在籍していた。
彼が車で向かった先は射撃場ではなく、オレアン高校だった。午後2時50分に到着したトニーは、3階の生徒会議室に入ろうとしたが、あいにく鍵が掛かっていた。已むなく銃で鍵を壊すと、その音を聞きつけた守衛のアール・メトカーフが現れた。トニーは躊躇することなく、その心臓を撃ち抜いた。
邪魔者を仕留めたトニーは、窓を開けると外に向かって銃撃し始めた。
25歳のシングルマザー、カーメン・ライトは車の運転中に狙い撃ちにされた。ガスメーター検針員のニール・パイロンも同様に帰らぬ人となった。以上の他にも12人が負傷。付近一帯はパニックに見舞われた。武装警官によりトニーが取り押さえられてからも恐慌は治まらず、「犯人の身柄確保! 犯人の身柄確保!」と拡声器で怒鳴って回らなければならなかった。
スクールガードをしていたマイケル・バーバロは、護送される狙撃者の顔を見るなり思わず叫んだ。
「なんてこった! 俺の甥っ子だ!」
成績優秀、明朗快活、誰からも好かれるナイスボーイがいったい何でまたこんな大それたことを仕出かしたのだろうか? 誰もが訝しく思った。まったく信じられない話だった。
やがてトニーの口からその動機が語られた。
「最も嫌いな人物を殺したかったんだ。僕自身だ。自殺したかったけど、その勇気がなかった。だから誰かに殺してもらおうと思ったんだ。だけどそれにも失敗してしまった」
1975年11月1日、アンソニー・バーバロはカタロウガス郡刑務所の独房の中で首を吊って自殺した。とんだ回り道の末にようやく目的を遂げたのである。
(2009年2月6日/岸田裁月) |