バック・ラクストン、本名バクティヤール・ラストンジ・ハキムは1899年、ボンベイのパールシー教徒の家に生まれた。ボンベイ大学で内科と外科の学士を取得した後、渡英してエジンバラ大学に編入、名前も英国流にバック・ラクストンと改める。イザベラ・カーに出会ったのはこの頃のことである。
当時のイザベラはヴァン・エスというオランダ人と結婚していたが、折り合いが悪くて別居中。レストランで働いていたところを、客のラクストンに見初められたのである。イザベラもこの肌の浅黒い男前に夢中になる。やがてラクストンがランカスターのダルトン・スクエアで開業医を始めると、共に移り住み、事実上の妻となる。3人の子宝に恵まれたが、どういうわけか籍は入れていなかった。子供が生まれても内縁のままだったのである。
2人の関係は円満とは云えなかった。とにかく嫉妬深い夫だったようだ。その背景にあったのは、彼の劣等感だった。
当時のインドは大英帝国の植民地だった。そこで生まれ育ったラクストンは英国に憧れる反面で、インド人であることに負い目を感じた。彼が英国流に改名したのはそういうわけだ。英国人になりたかったのである。そして、籍は入れていないけれども、英国人の女性を妻に娶った。ところが、共同生活を続けるうちに、文化の違いを思い知らされる。妻は私のことを野蛮人と思っているのかも知れない。いや、きっと思っているに違いない。あいつはいずれ私を捨てる。だって、いまだに籍を入れてないじゃないか。他に男がいるのかも知れない。いいや、きっといるに違いない。かようにして彼は妄想に飲み込まれていったのである。
1935年9月14日、イザベラはブラックプールにいる妹に会いに出掛けた。夕食までには帰って来る筈だった。事実、通いの女中は奥方の分まで夕食を作り、食卓に運んでいる。ところが、帰って来たのは真夜中過ぎだった。その日を最後にイザベラの姿を見た者はいない。ついでに、子守りのメアリー・ロジャーソンの姿も見た者はいない。2人は忽然と消えてしまった。翌朝、食卓の上には夫婦の夕食が手つかずのまま残されていた。
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