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フローレンス・ランサム
Florence Iris Ouida Ransom ( イギリス)



フローレンス・ランサム

 それは1940年7月9日、ロンドンの南東ケント州マットフィールドののどかなコテージでの出来事である。庭の家庭菜園ではのどかな光景とは対照的な惨劇が繰り広げられていた。片隅にうつぶせで倒れているドロシー・フィッシャー夫人。背中を撃たれており、辺りは血の海だ。反対側の片隅には娘のフリーダ19歳。やはりうつぶせで、背中を撃たれている。コテージ脇の小道では女中のシャルロット・ソーンダースが頭を撃たれて仰向けに倒れていた。

 室内は荒らされていたが、物盗りの犯行だとして、これほど大胆に一家皆殺しにするだろうか? しかも、真っ昼間の庭先での犯行なのだ。現場に駆けつけた主任警部ピーター・ベヴァリッジは訝しく思った。物盗りの犯行じゃないな。こりゃ怨恨だ。室内を荒らしたのは、おそらく物盗りに偽装するためだろう。

 ドロシーが夫のウォルター・フィッシャーと別居中との情報を得た警部は、早速オックスフォードシャー州ピディングトンにある彼の家を訪ねた。主を探して庭先をうろうろしていると、ベヴァリッジ警部の眼に意外な光景が飛び込んで来た。寝室のベッド上で魅力的な赤毛の女が眠っているではないか!
 そこに主のウォルターが気まずそうに登場。警部は訊ねた。

「やあ、あんたがウォルターさんかい? 奥さんと娘さんの訃報はもう聞いてるかな?」
「ええ、先ほど警察から聞きました」
「ところで、眼に入っちまったから訊くけど、あそこに寝てる女は誰だい?」
「ああ、彼女は、あの、友人でして、その、遊びに来たんですが、急に具合が悪くなりまして、その」
「隠すことないよ。愛人なんだろ?」
「はあ…」

 やがて青いスラックスにカラフルなセーター
という出で立ちで現れた赤毛の女、名前はフローレンス・ランサム。若くして未亡人になったという彼女は、ベヴァリッジの推察通りにウォルターの愛人だった。

「ドロシーとの結婚生活はだいぶ前から破綻してました。彼女はデンマーク人の愛人を作り、私もフローレンスとこういう仲になりました。お互いさまですよ。それで長女が結婚したのを機に別居しました。でも、その後もドロシーはちょいちょい訪ねて来ました。未練があったんですかねえ」
「どうして正式に離婚して、フローレンスと再婚しなかったんだね?」
「ほら、大戦中のことでしょ? ご近所の眼があるから、あまり浮いたことは出来ませんよ。だから、戦争が終わるまでは今のままで過ごそうと思っていたんです」

 ドロシーの「デンマーク人の愛人」の話は本当だった。ロンドンに住むその男には水も漏らさぬアリバイがある。彼の犯行ではない。
 一方、ウォルターの愛人のフローレンスに関しては、良からぬ情報ばかりである。彼女の傲慢な態度に使用人たちが辟易していること。彼女が怒り出すと手がつけられないこと。彼女は母のギルドフォード夫人と弟のフレッドをウォルターの屋敷に住まわせているが、それが本当の肉親なのか、ウォルターでさえ判らないこと。そして、これが何よりも重要なのだが、彼女は事件の2週間前にフレッドからショットガンの撃ち方と自転車の乗り方を習っていたこと。
 ベヴァリッジ警部はフローレンスを尋問した。

「7月9日は何処にいた?」
「ここにずっとおりました。母に訊いてみるといいですわ」

 フローレンスの云う通り、ギルフォード夫人は娘のアリバイを証言した。しかし、その供述はしどろもどろ。ベヴァリッジは「云わされているのだな」と感じた。

 一方、マットフィールドでは、現場付近の溝からドロシーの自転車が発見された。どうやら逃走に用いた犯人が遺棄したらしい。また、現場の家庭菜園には婦人用の右の革手袋が落ちていた。
 遺体はいずれも至近距離から撃たれている。ということは、顔見知りの犯行だ。フローレンスは過去に何度か現場を訪れている。ドロシーはもちろん、フリーダも女中のシャルロットもフローレンスとは顔見知りである。
 以上を前提に、ベヴァリッジはこのように推理した。

「その日、ドロシーとフリーダの母子は家庭菜園で畑仕事をしていた。2人がゴムの長靴を履いていたことから、これは間違いない。そこにフローレンスが訪ねて来た。『今日は兎狩りに来たの』とかなんとか云いながら、ショットガンを携えて。女中のシャルロットは『お茶でも入れましょうか』と奥に入る。すると、フローレンスはおもむろに右手の革手袋を脱ぎ、ドロシー目掛けて引き金を引く。続けざまにフリーダにも銃弾を御見舞いする。悲鳴と銃声を聞きつけたシャルロットも殺害し、室内を荒らして、ドロシーの自転車で逃走するも、習いたてなので溝にはまる」

 この推理を裏づける証言が続々と集まり始めた。
 まず、現場付近に住む少年が、犯行当日に自転車に乗った女性を目撃している。彼女は赤毛で、青いスラックスにカラフルなセーターという出で立ちだった。犯行直後にベヴァリッジが見たフローレンスとまったく一緒だ。
 同じ出で立ちの女性はトンブリッジ駅の改札係にも目撃されている。彼女は正午頃にロンドン発の列車から降り立った。その手には細長い包みが握られていた。おそらくショットガンを包んだものだ。そして、午後4時過ぎに再び現れて、ロンドン行きの列車に乗っている。
 また、彼女をマットフィールドまで乗せたタクシー運転手も、同じ出で立ちだったことを証言している。

 かくしてフローレンス・ランサムは殺人の容疑で起訴された。現場に残されていた革手袋は彼女の手にピッタリだったばかりか、膝にあった擦り傷は「自転車による転倒」を物語っていた。
 動機は嫉妬以外のなにものでもないが、それにしても3人もの命を奪う嫉妬心はただごとではない。精神的な病理が窺える事件である。事実、有罪となり終身刑を云い渡された彼女は、後に精神異常と診断されてブロードムア送りになっている。作家の立場としては、彼女の過去が知りたい。いったい彼女に何があったのか? ギルドフォード夫人とフレッドは本当に肉親なのか? ところが、参考文献にはその記述がない。掘り下げればこの事件、もっと興味深い事実が判明するやに思う。

(2007年11月25日/岸田裁月) 


参考文献

『LADY KILLERS』JOYCE ROBINS(CHANCELLOR PRESS)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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