コリン・ウィルソンは著書『犯罪コレクション』「悪の三角関係」の項の冒頭で「触媒効果(別々に生きたならば平穏な生活を送ったに違いない2人が、それぞれ刺激し合って、遂には殺人に駆られる)」の典型的事例として本件を紹介している。たしかに、マルゲリート・フェランに出会わなければ、イヴァン・ポダージェイは単なる詐欺師で人生を終えたことだろう。ところが、彼女との刺激的なプレイは彼を妄想の世界へと引きずり込み、遂には前代未聞の凄惨な殺人事件を引き起こしたのである。
フランス生まれの大英博物館職員、マルゲリート・フェランは典型的な女王様タイプだった。かたやセルビアの貧しい家庭で育ったポダージェイはマゾヒスト。割れ鍋に綴じ蓋の2人は出会ったその瞬間から運命的なものを感じ、妄想を共有した。フロイトをして「知る限りで最も顕著な性倒錯の実例」と云わしめたこのカップルの妄想の中では、マルゲリートが「ジョン伯爵」という専制君主に扮し、ポダージェイは「イータ」という女の召使いに扮した。と同時に、マルゲリータの別人格(女の召使い)とレズビアンの関係にもあったというから複雑だ。
マルゲリートはポダージェイがオールドミスを専門に毒牙にかける結婚詐欺師だと知っても動じなかった。否。それどころか、毒牙にかかった女どもがもがき苦しむさまを想像することに喜びさえ覚えた。そして、結婚したのが1932年3月。アグネス・タフヴァーソンが毒牙にかかる1年前のことである。
その日、イギリス海峡を渡るフェリーに乗っていたポダージェイは、身なりのよいアグネス・タフヴァーソンに眼をつける。そして、船酔い気味の彼女に言葉巧みに近づき、自らが大金持ちであることを強く印象づけたのだった。
2人はロンドンで逢瀬を重ねた。この手の詐欺師は最初のうちは気前よく札ビラを切って信用させて、後からゴソッと持って行くのだ。アグネスもすっかり術中に嵌まっていた。ニューヨークの職場に戻ったアグネスは同僚に自慢している。
「私、近く結婚するの! 相手はユーゴスラヴィアの大金持ちなのよ!」
彼女は既に「有利な投資があるんだけど」の誘いに乗って、5千ドルもの大金を彼に預けている。そして、間もなく送られて来た「別口の投資があるんだけど」との電報にもすぐさま応えて5千ドルを送金している。バカジャネエノと呆れるが、女ごころとはそんなものなのだろうか?
1933年11月、ニューヨークの彼女のマンションに、豪華な花束を抱えたポダージェイが現れた。
「約束通りに結婚しよう!」
「まあ、うれしい!」
翌12月4日に入籍。そして12月20日、2人はハネムーンに出掛ける予定だった。ところが、通いの女中がいつものようにアグネスのマンションを訪ねると、いる筈のないポダージェイがそこにいた。留守中も女中が来るとは想定外だったことだろう。ポダージェイは苦し紛れにこのように弁明した。
「アグネスは予定通りに乗船した。僕は急な用事が入ってね、次の便に乗ることにしたんだ」
そんなハネムーン、あるもんかい。
ポダージェイは逃げるようにその場を後にし、前日に買い込んだ大型トランクと共にオリンピック号に乗り込む。それっきりアグネスの姿を見た者はいない。心配した家族が警察に通報。そして1934年6月13日、ポダージェイとマルゲリートはウィーンで逮捕された。彼らの部屋からは大量の拷問用具が発見されて、仰天した警察はその道の権威であるジグムント・フロイトに鑑定を依頼、「知る限りで最も顕著な性倒錯の実例」とのお墨付きを得たというわけである。
ポダージェイは「アグネスは他の男と駆け落ちした」と弁明したが、彼女の荷物は全て彼らの部屋から発見された。ホラであることは明白だ。ニューヨークでの聞き込みにより、例の大型トランクを購入したその日に、なんと800枚もの剃刀の替え刃を購入していたことが発覚。なるほど、そういうことだったのかと一同大いに呆れ返った。
つまり、こういうこと。
アグネスの遺体が大型トランクに入っていたことは云うまでもないが、オリンピック号に乗り込んだポダージェイはほとんど外に顔を出さなかった。その間、ポダージェイはアグネスの遺体から肉を剃刀で少しずつ削ぎ落とし、窓から海に遺棄していたのだ。気が遠くなるような作業である。否。作業の煩雑性よりもむしろ、その残虐性、異常性にこそ注目すべきであろう。一人船室で女の死体を剃刀で削ぎ落とす心境たるや如何ばかり。私にはまったく想像がつかない。
もっとも、以上はあくまで推測に過ぎない。状況証拠だけで死体がないのではおはなしにならない。つまり、殺人に関しては完全犯罪が実現されたというわけだ。かくしてポダージェイは重婚の罪で5年間服役したに留まり、釈放後はマルゲリートとしあわせな性生活を送りましたとさ。
おしまい。
(2007年10月15日/岸田裁月)
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