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ジョージ・メテスキー
George Metesky
a.k.a. The Mad Bomber (アメリカ



『マッドボンバー』

 一昔前、テレビで頻繁に放映されていた映画『マッドボンバー』(1972製作。監督は『戦慄!プルトニウム人間』のバート・I・ゴードン)。世の中を逆恨みする爆弾魔(チャック・コナーズ)と薄汚い強姦魔(ネヴィル・ブランド)の狂気が錯綜する異色B級活劇だった。後に本作には実在のモデルがいたことを知る。ジョージ・メテスキー。彼こそが元祖「マッドボンバー」である。

 1940年11月16日、ニューヨーク西64丁目にある電力会社、コンソリディテッド・エジソン社の工場の窓枠に不審な木箱が置かれていた。包装紙にはこのように書かれている。
「コン・エジソンの悪党どもへ。これをお届けする」
(Con Edison crooks - This is for you.)
 中身はパイプ爆弾だった。真鍮製のパイプの中に火薬がぎっしり詰まっている。起爆装置は「砂糖と乾電池」で作られた稚拙なもので、事実、不発弾だった。しかし、意図して不発にしたようにも思える。爆発してしまえば悪党云々のメッセージは無意味だからだ。
 テロで溢れる今日ならばいざ知らず、当時はさほど注目されなかった。地元紙さえにも載らなかったという。欧州は戦禍の最中にあり、アメリカもいつ参戦するやも知れぬ時に、不発弾如きに構っていられなかったのだろう。



爆弾キチガイからの手紙

 手掛かりがないままに10ケ月が過ぎた1941年9月某日、コン・エジソン本社からほど近い場所で同様の爆弾が発見された。やはり不発弾だが、このたびはメッセージはない。コン・エジソン社に仕掛ける前に、何らかの理由により遺棄されたものと思われた。
 本件も報道されることはなかった。

 やがてアメリカが参戦すると、このような手紙がニューヨーク市警に送りつけられた。
「戦争の間は爆弾は作らない。私の愛国心がそうさせた。いずれコン・エジソンに裁きを下す。奴らは卑劣な行為を償うことになる。F.P.」
(I will make no more bomb untis for the duration of the war - My patriotic feelings have made me decide this - Later I will bring the Con Edison to justice - They will pay for their dastardly deeds...F.P.)
 約束に違わず、手紙の主は戦時中は爆弾を仕掛けなかった。しかし、まったく沈黙していたわけではない。同じような文面の手紙を絶え間なく警察や新聞社、そして憎きコン・エジソン社に送りつけていたようである。

 彼奴が「裁き」を再開したのは1950年3月19日になってからだ。仕掛けられていたのはグランド・セントラル・ターミナル。しかもこのたびは不発ではなかった。爆発したのだ。鑑識は青ざめた。
「技術が格段に向上している…」
 つまり、彼奴は休んでいる間に腕を上げ、おまけに戦略を変えたのだ。公共施設をターゲットにした無差別攻撃に打って出たのである。1957年までに少なくとも31件。うち22件が爆発している。幸いにして死者は出なかったが、計15名が負傷した。最悪だったのは1956年12月2日、ブルックリンのパラマウント・シアターでの件である。座席の下でそれは爆発、6名が負傷し、うち3名は瀕死の重傷だった。

「警察はいったい何をやっているんだ!」
「危なくて映画にも行けないじゃないか!」
 手掛かりすら掴んでいなかったニューヨーク市警は、藁にもすがる思いで犯罪心理学者ジェイムス・ブラッセル博士にお伺いを立てた。博士によれば「爆弾キチガイ」のプロファイルは以下の通り。

「男性である。爆破犯は歴史的に見て、ほぼ例外なく男性だからだ。
 偏執病者であることは間違いない。偏執病者の多くは30代前半まで本格的な症状が現れない。最初の犯行から16年経っていることから、現在は50歳前後と思われる。そして、多くの偏執病者と同様に独り暮らしか、年老いた縁者と暮らしている。
 手書き文字から几帳面な性格であることが判る。品行方正な模範的な人間。ダブルのスーツを好んで着るタイプである。
 文章の不自然さから移民の可能性が高い。おそらくスラヴ系だ。ゆえにカトリック信者である。
 手紙の中で彼は長年重い病気に苦しんでいることを告白しているが、まだ生きていることから、結核か心臓病を患っていると思われる」



ジョージ・メテスキー

 翌1957年1月21日に逮捕されたジョージ・メテスキーは、ブラッセル博士によるプロファイルに驚くほど合致した人物だった。ポーランド移民でカトリック信者、53歳の独り者で、年老いた2人の姉と暮らしていた。ダブルのスーツを好む彼は、ボタンを残らずかける几帳面。そして、結核を患っていたのである。

 しかし、逮捕の切っ掛けとなったのはプロファイルではなく、メテスキー自身のうっかりミスだった。彼は「ジャーナル・アメリカン」紙に宛てた手紙の中でこのように告白していた。
「私はコン・エジソンの工場での仕事で負傷した。結果、私は宣告された。完全に、そして永久に不具になったと」
(I was injured on job at Con Edison plant - As a result I am adjudged - Totally and permanently disabled.)
 続く手紙の中で、彼は事故の日を「1931年9月5日」と特定してしまった。かくしてジョージ・メテスキーが浮上した。彼はコン・エジソンに吸収合併された会社の従業員だった。だからコン・エジソンの従業員ばかりを洗っていたニューヨーク市警は彼に辿り着けなかったのである。
 すぐさま逮捕されたメテスキーは、署名の「F.P.」の意味を訊かれて、誇らしげにこう答えた。
「フェア・プレイの頭文字だよ」
 その瞳には明らかに狂気が宿っていた。

 1931年9月5日のボイラー事故で負傷したメテスキーは、そのために結核を患ったと主張したが、コン・エジソンは取り合わなかった。このことが偏執病を促して「爆弾キチガイ」を生み出したのだ。癲狂院送りとなり、1973年12月13日に釈放。その後、20年も生き存えて、1994年3月23日に死亡した。90歳だった。

(2008年8月22日/岸田裁月) 


参考文献

『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)


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