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マリア&フレデリック・マニング
Marie & Frederic Manning (イギリス)



パトリック・オコナーの遺体発見

 ラトクリフ街道殺人事件のような凶悪犯罪の増加に憂慮した内務大臣ロバート・ピールは、世界一の人口過密都市ロンドンの治安を維持できるだけの強力な警察機構が必要だと考えた。そこで彼の指導の下に1829年に設立されたのがロンドン警視庁である。スコットランド・ヤードという通称は所在地に由来している。我が国の警視庁を桜田門と呼ぶのと同じである。
 ピールの目的は、中央集権的な警察機構の確立と、捜査のスペシャリストとしての私服警官=刑事の育成である。しかし、当時の人々には私服警官に対する不信感があった。警察にスパイされるのではないかと恐れたのだ。そのために刑事局が設けられるまでに20年も待たなければならなかった。そんな開設されて間もない刑事局が初めて手柄を立てたのが、このマニング夫妻の事件である。

 1849年8月9日を境にパトリック・オコナーという税官吏が行方不明になった。スコットランド・ヤードの刑事たちがオコナーと親交があるマニング夫妻の家を訪ねると蛻の殻。台所の床には新しいセメントの跡がある。こいつは如何にも怪しいと掘り返してみたところ、中には石灰に塗れたオコナーの遺体が折り畳まれていた。

 マリア・マニングはエジンバラで、フレデリック・マニングはジャージーでそれぞれ逮捕された。動機はオコナーの財産横領である。フレデリックと出会う前からオコナーの恋人だったマリアは、結婚後も関係を続けていた。フレデリックはそのことを知りながらも見て見ぬふりをしていたようだ。完全にマリアの尻に敷かれていたのだ。ところが最近、オコナーがマリアにつれなくなった。支配的な彼女はそのことが面白くない。そして、密会の約束をすっぽかされたことでオコナーの殺害を決意する。オコナーの頭を銃で撃ち抜いたのは彼女である。その後、だらしのない亭主が「復讐」としてノミを頭に突き立てたのだ。

 今日なればいざ知らず、ヴィクトリア朝の時代には夫婦が結託して人を殺すことは珍しかった。ましてや妻の方が主犯というのは前代未聞だ。当時の女性は黒サテンの服を好んで身につけていたが、マリア・マニングが黒サテンで処刑台に立つと誰も着なくなったという。それほどの嫌悪感を彼女は振りまいたのだ。
 一方、本件がセンセーショナルな話題と共に大々的に報じられたおかげで、ロンドン警視庁と私服警官は市民に認知され、シャーロック・ホームズをはじめとする数々の探偵小説が生まれる土壌が育まれたのである。その意味で本件は意義深い。


参考文献

『犯罪コレクション(下)』コリン・ウィルソン著(青土社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『LADY KILLERS』JOYCE ROBINS(CHANCELLOR PRESS)


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