移転しました。https://www.madisons.jp/murder/text2/harvey_julian.html

 

ジュリアン・ハーヴェイ
Julian Harvey (アメリカ)



救出されたテリー・ジョー

 1961年11月、ウィスコンシン州在住の眼鏡商、アーサー・デュペラルトはフロリダキーズからバハマまでのヨットの旅に出掛けた。連れは妻のメアリーと長男のブライアン(14)、長女のテリー・ジョー(11)、そして次女のレニー(7)の4人である。操縦者はジュリアン・ハーヴェイ。元空軍中佐のこの男は、地元では名の知れたヨットマンだった。その妻のメアリーも助手として搭乗していた。

 彼らを乗せた「ブルーベル号」は11月8日にフォート・ローダーデイルを出帆した。気候は穏やかだった。船旅には持って来いだ。ところが、彼らがバハマに到着することはなかった。
 11月13日、プエルトリコへと向かうタンカーの搭乗員が海に浮かぶ救命ボートを見つけた。男が手を振っている。ジュリアン・ハーヴェイだった。
「助けてくれ! 子供が死んでいるんだ!」
 その傍らにはレニーの遺体が横たわっていた。

 救助されたハーヴェイは事のあらましをこのように語った。
「火の手が上がったんだ。原因は判らない。その勢いは凄まじくて、妻や乗客を助ける余裕はなかった。自分一人が生き延びるので精一杯だったんだ。ボートの上でヨットが沈むのを呆然と眺めていると、女の子が浮かんで来た。この子だけでもなんとかと思ったが、既に息をしていなかった」
 寄港先のナッソーで海上保安員の尋問を受けたが、特に怪しい点は見当たらない。地元ではよく知られた男だし、故意に船を沈めたとは思えない。彼はマイアミに帰還することを許可された。
 このまま何事もなければ、海難事故の一つとして記憶されるに留まったことだろう。

 事態が急展開したのは3日後のことである。
 11月16日、ヒューストンへと向かう貨物船の搭乗員が海に漂う筏を見つけた。その上では少女がぐったりとしていた。テリー・ジョーだった。
 ヘリコプターでマイアミの救急病院に運ばれた彼女は、一命は取り留めたものの衰弱が酷く、まだ話せる状態ではなかった。
 マイアミに舞い戻ったハーヴェィは、テリー・ジョーが救出された旨を知らされた。その時の彼の言葉は、
「Oh my God!」

 嬉しい時に使わないこともないが、どちらかというと困った時に使う言葉である。しまったと思ったのか、その後に慌てて付け足した。
「Isn't that wonderful !」
 翌朝、彼の遺体がホテルの部屋で発見された。自殺だった。剃刀で手首と喉を掻き切ったのだ。遺書にはこのように書かれていた。
「もう疲れた。これ以上耐えられない」

 やがて回復したテリー・ジョーが語った真相はこうだ。
「私は兄の悲鳴で目覚めました。隣の部屋では母と兄が血みどろで倒れていました。びっくりしてデッキに駆け上がろうとすると、ハーヴェイに突き落とされました。やがてヨットが沈んでいることに気づきました。ハーヴェイは自分だけ救命ボートに乗って逃げ出そうとしていました。私は彼にバレないように筏まで走り、辛うじて助かりました」

 すべてがハーヴェイの仕業だとして、その動機はいったい何だったのか? 彼の身辺を洗った警察は、妻のメアリーに多額の生命保険が掛けられていたことを突き止めた。これが動機だったとすれば身の毛がよだつ思いがする。妻一人を殺害するために無関係な一家を巻き込んだのだから。

 なお、その後の調査で、ハーヴェイの最初の妻も事故死していることが判明した。1945年、彼の運転する車が川に落ちたのだが、この時も彼だけが助かり、妻のジョアンと義母のマートル・ボイレンが死亡していたのだ。妻にはやはり生命保険が掛けられていた。保険金殺人の常習犯だったのだろうか? 当人が死んでしまっているので、その真相は知る術がない。

(2008年10月10日/岸田裁月) 


参考文献

『SERIAL KILLERS』JOYCE ROBINS & PETER ARNOLD(CHANCELLOR PRESS)
『THE ENCYCLOPEDIA OF MASS MURDER』BRIAN LANE & WILFRED GREGG(HEADLINE)


counter

BACK