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サミュエル・ドゥーガル
Samue H. Dougal
a.k.a. The Moat Farm Murder (イギリス)



ドゥーガルとホランドの馴れ初め


遺体を求めて掘を捜索


発掘されたホランドの遺体

 排水路から発掘された遺体が余りにも長方形で、まるで羊羹のようなのが記憶に残る事件である。

 工兵隊に21年間在籍していたサミュエル・ドゥーガルは「品行方正」という言葉とは無縁の人生を送ってきた。遊び人で女たらし。孕ませた女は数知れず、当然のことながら借金で首が回らなかった。
 まだ工兵隊員だった1885年7月、カナダの駐屯地で16年間連れ添った妻が急逝する。葬儀のために帰国して、翌月に戻って来た時には早くも後妻を伴っていた。ところが、この女性も数週間後に激しく嘔吐して急逝する。持参金目当ての殺人だったことが疑われるが、当時は訴追されることはなかった。

 1887年に除隊したドゥーガルは、様々な職を転々としながら、以前にも増して女遊びにうつつを抜かした。借金苦のために様々な悪事にも手を出していたようだ。そして1896年、遂に小切手偽造の容疑で投獄されて、軍人年金を受給する権利を剥奪されてしまう。そんなニッチもサッチもどうにもの彼がカミール・ホランドに出会ったのは、出所した翌年の1898年のことである。
 カミール・ホランドは55歳の独身女で、かなりの資産家だった。教養はあるが世智に欠け、ドゥーガルのような男の絶好のカモである。その資産を7000ポンドと踏んだドゥーガルは、現職の陸軍大尉と偽って近寄り、まんまと誑し込むことに成功した。やがて2人はロンドン郊外サフラン・ウォールデンの農家で同棲し始めた。
 ちなみに、この農家が「モート・ファーム(Moat Farm)」という堀で囲まれた様式だったことから、本件は「モート・ファーム殺人事件」とも呼ばれている。

 事の発端は、女たらしのドゥーガルが女中フローレンス・ヘイヴィーズに夜這いしたことらしい。19歳のおぼこ娘はこれを頑に拒み、翌朝には「こんな家にはいられません」と辞めてしまう。このことでひと悶着あったのだろう。やがてカミールの姿が見えなくなった。
 女主人を失った「モート・ファーム」でドゥーガルは手当たり次第に近隣の女を喰いまくった。多くの女中を誑し込み、時には母親とその3人の娘をまとめて喰ったというから呆れてしまう。豪華な親子丼である。
 更に常軌を逸しているのが庭でのサイクリングのエピソードだ。女たちと共に裸で自転車を乗り回すドゥーガルの姿がしばしば目撃されていたのだ。裁判記録にはこうある。

「あの地肌が剥き出しの凸凹した野原で、泥だらけの裸の娘が脚を広げて、あの自転車とかいう不粋な物体に跨がっていたとは、なんと嘆かわしいことであろうか」

 この文章も相当にエロチックだ。
 こんなことをしていれば訝しがられるのも道理。やがて近隣ではドゥーガルのカミール殺しが日常的に噂されるようになる。1903年には遂に警察の手が入る。まずはカミール名義の小切手偽造の容疑でドゥーガルをしょっぴいてから農家を捜索。
堀をさらって水を抜き、鉄の棒を突き刺してまわった。ところが、遺体は一向に見つからない。ドゥーガルの供述通りに、カミール・ホランドは外国にいるのだろうか?
 遺体が見つからないので強気になったドゥーガルは、地所が荒らされたことの賠償として1000ポンドを請求すると云い出す始末。背水の陣の警察はやがて有力な情報を耳にする。カミールの姿が見えなくなった1899年5月頃に農家では排水路を埋める工事をしていたというのだ。
 それだ!
 予感は的中。排水路からは噂の通りに、側頭部を銃で撃たれたカミールの遺体が発掘された。

 法廷においてドゥーガルは、銃の暴発による過失だったと主張したが、陪審員を納得させることは出来なかった。かくして有罪となり、1903年7月14日に絞首刑に処されたわけだが、4年もの間、放蕩三昧の日々を過ごしたのだ。仕方あるまい。

(2007年1月15日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『犯罪コレクション(下)』コリン・ウィルソン著(青土社)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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