フィリピン生まれのバート・カリタティヴォは、サンフランシスコの豪邸で召使いとして働いていた。やがて隣家で働く同郷の小間使い、カミール・マルムグレンと懇意になる。2人の間に恋が芽生えたことは想像に難くない。しかし、共に住み込みの雇われ人の身。結婚は叶わぬ夢だった。
転機が訪れたのは1944年。カミールが御主人様のジョセフ・バンクスに求婚されて玉の輿。おいてけ堀を喰らったバートの心境たるや如何ばかり。カミールとの親交はその後も続いたが、かつてとは趣きを異にしたことは云うまでもない。
10年後の1954年にはカミールの結婚生活は破綻していた。原因はジョセフの飲酒癖である。カミールは近所の不動産業者に電話した。
「故郷に帰ることにしました。財産を整理したいので、自宅に来て頂けないかしら?」
しかし、業者が訪れた時には、カミールは既にこの世のものではなかった。寝室で頭を叩き割られていたのである。旦那のジョセフも居間で大の字に倒れていた。辺りにはウイスキーの空き瓶が散らばっている。誰もがアル中男の狼藉と思う。ところが、どうもそうではないらしい。というのも、ジョセフの胸には刃渡り35センチのナイフが突き刺さっていたからである。
テーブルの上にはこのような書き置きが残されていた。
「あなたたちが目にしたことは、すべてわたしのせきにんがある。ジョセフ・バンクス」
文法や綴りが間違いだらけのこの書き置きをジョセフの直筆と受け止める者はいなかった。カミールの遺品の中からも、同じ筆跡の「遺言状」なるものが見つかった。
「わたしのざいさんはすべておとなりのめしつかい、バート・カリタティヴォにゆずります」
これでは自白しているも同じである。すぐさまバートは逮捕された。
1955年1月に始まった裁判は、誰の眼から見てもバートに不利だった。弁護人も熱心ではなかった。差別を感じたバートは、このような書き置きを現場に残して、弁護人の自宅に火を放つ。
「わたしはべんごにんへのしんらいがうしないました」
皮肉にもこの書き置きがバートの有罪を決定づけた。文法や綴りの間違いが「遺書」のそれとまったく同じだったのである。
死刑判決を受けたバート・カリタティヴォは、1958年10月にサン・クエンティンのガス室で処刑された。彼の犯行であることは間違いないとして、問題はその動機である。嫉妬に基づくものだったのか? それとも単なる財産目的か? 思うに、双方が複雑に絡み合った末の犯行ではなかったか。
(2008年7月24日/岸田裁月) |