やぶにらみのベン・ターピンによく似たフレデリック・セドンは、しかし、ターピンのように斜視ではなかったし愉快な人物でもなかった。とにかく強欲だった。何よりもお金を愛するゼニクレージーだ。金のためなら平気で人も殺した。その銭ゲバぶりには諸君も舌を巻かれることだろう。
銭ゲバの餌食となるイライザ・バロウが北ロンドンはトリントン・パーク63番地のセドン宅を訪れたのは1910年7月25日のことである。下宿人募集の広告に応じたのだ。49歳のぽっちゃりとしたこの女性は「亡くなった友達の遺児」だという8歳のアーネスト・グラントと、アルコールの匂いを漂わせたフック夫妻と名乗るつがいの中年を引き連れていた。なんでも、いとこと喧嘩して、家を飛び出して来たのだという。イライザは手提げ金庫を見せながら「部屋代ならば前払いでお支払いします」と持ちかけた。当初は薄汚い4人組に眉を顰めていたセドンだったが、前払いと聞くや否や手のひら返してどーぞどーぞと快諾した。さすが強欲。この奇妙な4人組は翌日から2階に住まうことになった。
1週間ほどして、フック夫妻と喧嘩をしたイライザが、彼らを追い出して欲しいとセドンに泣きついてきた。頼まれるままに夫妻に立ち退きを求めると、
「お前もイライザの金に目が眩んだんだろう?」
と悪態をつかれた。立ち去る際にも、
「あんたなんかにゃイライザの金は渡しゃしないぜ」
と捨て台詞を吐かれた。この風采の上がらない女がどれほどの金を持っているというのだ? セドンはイライザに大いに興味を持ち始めた。さすが強欲。
さて、ここでフレデリック・セドンという男について触れておこう。
1872年にイングランド北部のランカシャーで生まれたセドンは、19歳の時にロンドンの保険会社で働き始めてからメキメキと頭角を現し、24歳の若さでイズリントン地区の責任者に抜擢された人物だ。特に数字に関する記憶力は天才的で、何年前の取引であろうとも細かいところまで正確に憶えていたという。頭の中に帳簿があるような男なのだ。会社は彼の能力を大いに買い、絶大な信頼を寄せていた。
その反面で、というか当然の帰結というべきか、金に細かい吝嗇家だった。高給取りであるにも拘わらず贅沢はせず、妻のマーガレット・アンと5人の子供は倹しい生活を強いられていた。下宿人を募集したのもそんな訳だ。とにかく蓄財したかったのだ。金の魔力に取り憑かれていたと云ってもよいだろう。
セドンはイライザから話をいろいろと聞き出すうちに、かなりの資産家であることが判ってきた。彼女は年利3.5パーセントのインド株式1600ポンド相当を所有し、2軒の不動産の賃料収入があった。すべて合わせて年間120ポンドの収益である。更に200ポンドを銀行に預金し、手提げ金庫の中には400ポンド相当の宝石類が眠っていたのだ。
ところが、そんな彼女にも悩みがあった。時の政府の政策によりインド株式の利率が下がる恐れがあったのだ。彼女はそのことを保険の専門家であるセドンに相談した。「しめた!」ってなもんである。セドンは言葉巧みにイライザを説得し、インド株式を彼に譲渡する引き換えにイライザが死ぬまで毎年103ポンド4シリングの年金を支払う旨の契約を結んだのだ。同年10月14日のことである。
クリスマスが過ぎた頃には、イライザは不動産の賃貸権もセドンに譲渡していた。翌年の6月には銀行の経営不安を彼女に吹き込み、預金口座を解約させた。これですべての財産が出揃った。後は彼女を亡き者にするだけだった。
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