レクター博士の逃亡先がフィレンツェだったのは「フィレンツェの怪物」と無関係ではないだろう。「イル・モストロ事件」とも呼ばれるこの連続殺人事件はいまだに未解決のままである。
最初の犯行は1968年8月21日に遡る。フィレンツェ郊外の墓地付近で停車中の車から男女の射殺死体が発見されたのだ。車内には女性の子供が同乗していたが、熟睡していたために無事だった。その父親たる夫に嫌疑がかけられ、1970年3月に13年に処された。ところが、これが誤審であったことが後に発覚する。
1974年9月14日、フィレンツェ郊外の葡萄畑付近で停車中の車から男女の射殺死体が発見された。被害者は共に裸で、特に女性は96ケ所もめった刺しにされていた。その上、性器には葡萄の茎が押し込まれていた。
この時点では、1968年の事件と関連づけて考える者はまだ誰もいなかった。
1981年6月6日、3組目の犠牲者が出た。やはり車内で射殺され、女はめった刺しにされた上に性器を切り取られていた。前2件との類似性は明白だが、この時点をもってしても連続殺人事件だと考える者はいなかった。覗きの常習犯が容疑者として逮捕されたが、次の犠牲者が出たのはその拘禁中のことだった。
同年10月22日、バルトリーネ付近で車内から男女の射殺死体が発見された。この時点で警察はようやく連続殺人事件ではないかと考え始めた。弾道検査を行ったところ、4件すべてが同じ22口径のベレッタから発射されたものだった。
それでも1968年の事件で有罪になった男は釈放されなかった。警察は共犯者がいるのではないかと考えたのである。その推測の下にもう一人の男が逮捕されたが、すぐに無実であることが明らかになった。1982年6月19日に同じベレッタの犠牲者がもう1組増えたからである。
1983年9月9日にはゲイのカップルが射殺された。一人の髪が長かったために女と間違われたらしい。
警察はなおも「共犯者」による犯行に固執し続け、新たに数人の身柄を拘束したが、それをあざ笑うかのように犯行は続いた。1984年7月29日に別の男女が犠牲になっている。
そして、1985年9月8日の犯行が最後となった。犯人は被害者の女性から切り取った性器を検事に送りつけると、それを別れの挨拶にして消え去ったのだ。
警察は「共犯者」の線を捨て、新たにピエトロ・パッチャーニという69歳の農夫を逮捕した。彼は一貫して無罪を主張し、係争中の1998年2月に心臓発作で死亡した。またしても真相は闇の中だ。
事件を迷宮に導いたのは、明らかに警察の初動捜査のミスである。1968年の件の誤審を認めようとしなかったために傷口をどんどん広げてしまったのだ。連続殺人事件であることに気づくのも遅すぎた。こうしたグダグダぶりを参考にして執筆されたのが、トマス・ハリス著『ハンニバル』の前半部分である。
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