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ジャック・メスリーヌ
Jacques Mesrine (フランス)



ジャック・メスリーヌ

 現実の世界でルパン三世に最も近い人物は、このジャック・メスリーヌに違いない。ハードボイルドの世界から抜け出して来たかのようなこの男は、とにかく、ワルであることを楽しんでいた。アウトローであることを夢見るロマンティストだったのだ。

 ジャック・メスリーヌは1936年12月28日、パリの中流家庭に生まれた。1940年に父親が徴兵されると、家族はポアチエ近郊に疎開した。この地で幼い彼はレジスタンスと出会い、彼らの生き様に憧れを抱いた。
 戦争が終わるとパリに舞い戻ったが「レジスタンスになりたい」という思いは変わりなかった。しかし、戦争が終わってしまえばレジスタンスにはなれない。向う道はアウトローしかないのだ。やんちゃな彼はたびたび退校処分になり、車を盗んでは乗り回すチンピラへと成長して行った。

 18歳の時に西インド諸島出身のべっぴんさんと結婚するが、そのまま家庭に落ち着くような男ではない。19歳でアルジェリアの外人部隊に志願した。水を得た魚とはまさにこのことである。心の底から戦闘を楽しむ彼は数々の殊勲章を授かった。戦争とは国が犯罪行為を奨励し、犯罪者を作り出すシステムであることを、彼を見ていてしみじみ思う。1958年の除隊後も、メスリーヌはパリを舞台に私的な任務=侵入窃盗を繰り返した。

 メスリーヌの除隊と前後してドゴール将軍が政権を握ると、アルジェリア問題は政治的解決の方向に動き始めた。これを裏切りと考えたメスリーヌは、右派のサラン将軍が結成した「OAS(秘密軍事組織)」に参加した。このことが彼の人生哲学を決定づけた。曰く「法に従うか否かは個人の自由である」。

 1962年3月、初めて逮捕されたメスリーヌは強盗の容疑で3年の刑を喰らう。翌年7月に仮釈放されるも堅気になるつもりなど更々なく、ジャンヌ・シュネーデルという娼婦と組んで尚も強盗を繰り返した。

 やがて全国指名手配されたメスリーヌは1968年にカナダに渡り、ジャンヌと共にモントリオールの実業家ジョルジュ・デローリエの使用人として雇われた。ほどなく解雇された腹いせにデローリエを誘拐、20万ドルを要求するも受け渡し場所には誰も現れず、隠れ家に戻ればデローリエは自力で逃げ出していた。大失敗である。仕方がないのでペルセに逃げて、小さなモーテルで1週間ほど身を隠す。彼らがチェックアウトした翌日の1969年6月30日、女主人エヴリーヌ・ル・プティリエが絞殺死体となって発見された。これが戦争以外での初めての殺人だが、メスリーヌはこの件への関与を否定している。おそらく相手が女だからだろう。女に手を出すことは彼の美学に反するのだ。

 間もなくアメリカで逮捕された2人はカナダに送り返されて、誘拐の件で有罪となり、それぞれ10年と5年の刑を下された(殺人については証拠不十分のために無罪となった)。
 さて、ここからがメスリーヌ伝説の始まりだ。1972年8月21日、脱獄不能と云われていたサンヴァンサン・ド・ポール刑務所からまんまと脱獄してみせたのである。それだけではない。1週間後に脱獄仲間と銀行を襲った後、その足でサンヴァンサン・ド・ポール刑務所へと引き返し、塀の中の仲間たちを救い出そうとしたのだ。これは未遂に終わったが、大衆は現代に甦ったデリンジャーにエールを送った。義賊であることがアピールされたわけだが、その一方で、逃亡中のメスリーヌは罪のない2人の森林警備員を射殺している。故に決して義賊などではない。



メスリーヌの百面相

 やがて相棒のジャン=ポール・メルシエと新しい恋人ジョスリーヌ・ドレイシュと共にフランスに舞い戻ったメスリーヌは、インターポールにも指名手配されていることを知るや、逮捕に備えて裁判所の下見をした。そして、1973年3月8日に遂に逮捕された時、華麗に脱走して見せた、あらかじめトイレに銃を隠しておいたのである。「怪盗メスリーヌ」の名は故郷フランスでも轟いたのだ。

 メスリーヌは己れの名声に酔っていた節がある。
 例えば、銀行の女子行員が警報ボタンを押した時でも慌てることなく、
「ご心配なく。俺は音楽に合わせて仕事をするのが好きなタチでね」
 などとキザな言葉を口にして微笑んでみせた。
 父親がガンで危篤になると、医師に変装して厳重な警戒を破って見舞いに出向き、世間をあっと云わせた。
 また、街頭で見ず知らずの少年が万引きで逮捕された時、メスリーヌは刑事を名乗って少年を引き取り、そのまま逃がしてやった。こうしたエピソードが積み重なって、現代のロビンフッドとしてのメスリーヌのイメージが形成されて行ったのである。

 1973年9月27日に逮捕された時は、獄中での暇な時間を自伝の執筆に費やした。1977年2月に出版された『殺人本能(L'Instinct de Mort )』である。そして、法廷でも得意のパフォーマンスを披露した。どんな手錠でも簡単に外すことができると宣言し、実際にわずか数秒で外してみせたのだ。

 結局、20年の刑を喰らったメスリーヌは、1978年5月8日にまたしても脱獄不能のラサンテ刑務所から脱獄する。手下に命じて、面会室の通気孔に拳銃と催涙ガス弾、ナイフとザイルを仕込ませていたのだ。そして、すぐさま己れを裁いた判事の誘拐を企てるも未遂に終わる。もうここまで来るとマンガである。否。マンガでもここまで荒唐無稽な行動には出ないだろう。

「俺は生きたまま捕まることは絶対にない」
 その宣言の通りになったのは1979年11月2日のことである。ベリヤール通りにあるアジトから出たメスリーヌは、路上に停めていたBMWに乗り込んだ。その時、後ろから現れた青いトラックが彼の前で停車した。そして、別のトラックが後ろから挟み込んだ。すわ一大事。逃げる間もなく警官隊に取り囲まれ、21発の銃弾が矢継ぎ早に撃ち込まれた。即死だった。しかし、これは彼が望んだ死に様である。かくしてジャック・メスリーヌの美学は完結したのだ。


参考文献

『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社)
週刊マーダー・ケースブック42(ディアゴスティーニ)
『世界犯罪者列伝』アラン・モネスティエ著(宝島社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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