フローレンス・メイブリック
ジェイムス・メイブリック |
フローレンス・メイブリックの事件は冤罪の可能性が極めて濃厚である。彼女は夫のジェイムス・メイブリックを砒素で殺害した容疑で有罪となったが、遺体から砒素が検出されるのは当り前なのだ。ジェイムスは砒素を麻薬のように常用していたのである。そのことを彼女も知っていた。だから、彼を毒殺しようとする場合、同じ砒素を盛るとはとても考えられないのである。
フローレンス・メイブリック(旧姓チャンドラー)は1862年、アラバマ州モービルに上流階級のお嬢さまとして生まれた。そんな彼女が綿花の仲買人ジェイムス・メイブリックと出合ったのは18歳の時、パリへと向う航海上でのことである。23歳も年上の英国紳士の何処に引かれたのかは知らないが、お嬢さまは両親の反対を押し切ってジェイムスと結婚した。
ジェイムスは両親が反対して当然の男だった。年齢差はもちろんだが、如何にも胡散臭かった。鬱の傾向がある彼は、頻繁に怪しげな薬を服用していた。砒素である。殺鼠剤に用いられる猛毒だが、少量の服用であれば興奮剤のような効果が得られるという。気が鬱ぎがちだった彼は、あたかもコカインのように常用していたのだ。
また、ジェイムスにはヴァージニア州に内縁の妻がおり、既に子供が3人いたのである。もちろん、そんなことはフローレンスは知らない。知ったのは3年後、リバプールに移住してからのことだ。彼女はジェイムスの子を2人産んだが、その間に内縁の妻もまた2人産んだ。合計7人だ。ジェイムズによれば砒素にはおちんちんを元気にする効果もあるそうで、彼にとってはバイアグラでもあったわけだ。
不貞がバレても悪怯れない夫に愛想を尽かしたフローレンスは、やがて夫の仕事仲間で二枚目のアルフレッド・ブリアリー(38・独身)と不貞を働くようになる。これに気づいたジェイムスは、てめえの不貞は棚に挙げてフローレンスに手を上げた。そのまま気絶して1週間も寝込むこともあったという。このままでは殺される。フローレンスはブレアリーに「連れて逃げてよ」と懇願したが、彼はそこまで真剣ではなかった。
やがてジェイムスの具合が悪くなった。激しい嘔吐を繰り返し、手の震えが止まらない。そして、苦しみ抜いた挙げ句、1889年5月11日に死亡。体内からは砒素が検出された。そりゃそうだろう。自ら服用していたのだから。ところが、ジェイムスの親類と使用人たちは、フローレンスに毒を盛られたために死亡したのだと告発した。かくして彼女は殺人の容疑で起訴されて、死刑を宣告されたのである。
思うに、フローレンス・メイブリックは「殺人」ではなく「不貞」で裁かれたのである。例えば、有罪を決定づけたとされるブレアリーに宛てた手紙の一文、
「夫は死にかけています(He is sick unto death)」
検察側はこれをもって殺意の現れと主張したが、実は彼女の故郷アラバマでは重病全般によく使う云い回しなのだそうだ。それに、実際にジェイムスは死にかけていたわけだから、殺意もへったくれもない。にも拘わらず、陪審員は殺意を認定した。「不貞を働くような女は、その報いを受けるべき」という判断が働いていたとしか思えない。
私だけではなく、当時の大衆もそのように感じたようだ。何千人という人々が助命嘆願書に署名した。内縁の妻までもがフローレンスの無実を訴えた。
「あの人は砒素を常用していました。いつか死ぬのではないかと心配でした」
世論が彼女に味方して、処刑の3日前に終身刑に減刑された。1904年に恩赦により釈放された彼女は、アメリカに渡って『失われた15年間』という自伝を執筆、その数奇な半生を講演して回った。晩年は一人静かに暮らしたという。1941年10月23日に死亡。79歳だった。
一方、息子のジムは母が父を殺したと信じていたため、妹のグラディーズを母に会わせなかった。その罰が当たったのかは知らないが、1911年に事故死した。大学の研究室で食事を摂っていた彼は、サンドイッチを喉に詰まらせて、水で流し込もうとした。ところが、彼が手に取ったのは水ではなくシアン化物を入れたビーカーだった。即死だったという。因果を感じさせる死に様である。
時は流れて1991年、ジェイムス・メイブリックが「切り裂きジャック」の正体だとする珍説が浮上した。「切り裂きジャック」の署名入りの彼の日記が出版社に持ち込まれたのだ。たしかに、妻が不貞を働き、それを紛らわすための砒素の量が増えて行った時期と「切り裂きジャック」の犯行時期は一致する。しかし、一致しているだけである。日記は贋作と見るべきであろう。
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