事件に便乗した1843年のカレンダー
遺体発見の再現図 |
1841年7月28日、ニュージャージー州ホボケンを流れるハドソン川の船着場で若い女性の水死体が発見された。衣服は身につけていたがひどく破れて、ペチコートは履いていない。顔には殴打の跡がある。強姦後に殺害されたものと思われた。
身元はすぐに割れた。21歳のメアリー・ロジャースはブロードウェイにある煙草屋の看板娘だった。ニューヨークではちょっとした有名人だったのである。
メアリー・ロジャースは1820年、ニューヨークで生まれた。5歳の時に父を失い、母は下宿屋を経営して、女手一つでメアリーを育てた。そんな訳でメアリーは早いうちから働きに出た。前述の煙草屋で働き始めたのは彼女が20歳の時だった。
メアリーはスラリと背が高く、近隣で評判の器量良しだった。そんな女性が直接手渡してくれるというので、煙草屋はたいそう繁盛した。店主のジョン・アンダーソンは大喜びだった。
ところが、10ケ月ほどした1841年1月某日、彼女が初めて欠勤した。常連が心配して訊ねると、店主は首を捻って「さあ、どうしたんだか…」。母親も心当たりはないと云う。警察が動き始め、新聞もその行方不明を報じた。しかし、その消息は杳として知れなかった。
6日後に彼女はひょっこり顔を出した。幾分やつれている。姿を消した理由を訊かれて、田舎の親類の家に行っていたと説明した。母親も店主もそれを裏付けたので、騒ぎはこれで収まった。ところが、間もなく奇妙な噂が広まる。彼女が姿を消している間、背の高い二枚目の海軍士官と一緒にいたの見たというのだ。するとメアリーは数日後に煙草屋をプイと辞めてしまう。そして、1ケ月後に婚約した。相手は母親の下宿に住んでいたダニエル・ペインという事務員だった。
5ケ月後の7月25日、メアリーはダニエル・ペインに「ブリーカー街の叔母の家に行って来ます」と告げて家を出た。ペインは夕方に迎えに行くことを約束したが、激しい雷雨に見舞われた。たまには叔母さんの家に泊まるのもいいでしょう。母親がそう云うので、ペインは迎えに行かなかった。
ところが、翌日になっても彼女は帰って来なかった。心配したペインが叔母さんの家まで走ると、彼女は昨日は来なかったと云う。またしても行方不明になってしまったのである。
2日後、前述したような状態でメアリーの遺体が発見された。腐敗がかなり進行していたため、解剖されることなく、直ちに埋葬された。
1週間ほど経った頃、検視官のもとに匿名の手紙が届いた。メアリーが消えた日の午後にホボケンで見たというのである。彼女は6人の粗野な男たちと共にボートを降り、森の中に入って行った。楽しそうに笑っており、無理矢理連れて行かれているようには見えなかった。
やがて2人の男が出頭し、手紙と同じようなことを供述した。しかし、その女がメアリー・ロジャースであったかどうかは断言出来なかった。
|