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ドナルド・ハーヴェイ
Donald Harvey (アメリカ)



ハーヴェイの弁護人による著作

 ケンタッキー州等の病院で看護助手をしていたドナルド・ハーヴェイは、1970年から87年までの間に、少なくとも58人を殺害している。「死の天使(Angel of Death)」を自称する彼は、患者の苦痛を取り除くために殺したのだと弁明したが、最初の殺人は明らかに私怨であるし、患者でない友人や隣人も殺しているのだ。この弁明は通らない。

 ハーヴェイがケンタッキー州ロンドンのメアリーマウント病院で働き始めたのは18歳の時のことである。失業中に入院していた祖父を見舞ううちに看護婦たちと顔馴染みとなり、その口利きで看護助手の職を得たのである。そして数ケ月後、最初の殺人を犯す。ボケ老人にうんこを顔中に塗りたくられた腹いせに窒息死させたのだ。幸い、というべきか、不幸にも、というべきか、ハーヴェイはまったく疑われなかった。そのために犯行は繰り返された。酸素吸入器を外す。ビニール袋を顔に被せる。モルヒネ等薬物を投与する。さながら人体実験をするかのように、様々な手口を試みた

 患者の中にはハーヴェイが自分を殺そうとしていることに気づく者もいた。口論の末にハーヴェイをおまるで殴りつけた。その晩、患者は報復を受けた。導尿管に穴を開けられ、そこからの感染で数日後に死亡した。

 1971年3月31日、酔っぱらって強盗を働いたハーヴェイは警察に逮捕された。ヤケクソになっていたのか、殺人の数々を自供したが、警察は取り合わなかった。
 思うに、ハーヴェイはこの時、犯行を止めたかったのではないだろうか。しかし、警察は止めてはくれなかった。わずかな罰金刑で釈放されてしまった。その後の数年間、彼の精神は迷走する。軍に入隊したものの鬱病を患い、精神病院で自殺未遂を繰り返した。そして、退院後の1975年9月にオハイオ州シンシナティのVAメディカル病院で再び看護助手としての職を得る。この時には彼の心にはもう迷いはなかった。
 殺人者としての生涯を全うする。
 かくして稀代の連続殺人鬼、ドナルド・ハーヴェイは完成したのである。

 続く10年間にハーヴェイは少なくとも15人は殺害している。そして、かつてグレアム・ヤングがそうしたように、詳細な殺人日記をつけ始めた。口と鼻の上に濡れたタオルを被せて、どのように苦しみながら死んでいったかを克明に記述した。患者の食事に砒素を盛り、静脈にシアン化物を注入した。彼は砒素とシアン化物が入った小瓶を常に持ち歩いていた。彼にはヤングのように化学の知識はなかったが、医療の現場で働くことを通じて、毒殺の知識を身につけていたのだ。
 1980年代に入り、ハーヴェイの毒牙は患者以外にも向き始めた。ゲイの恋人、カール・ホーウェラーやその両親、口喧しい隣人たちが小瓶の中身を盛られることになった。ある女性などは飲み物に肝炎血清を混入された。感染した彼女は数年後に死亡した。

 1985年7月18日、不審な行動ゆえにハーヴェイを取り押さえた病院の警備員は、彼のバッグから38口径の銃と注射器、外科用はさみ、手袋、様々な医学書、2册のオカルト本、そして、連続殺人犯シャルル・ソブラジの伝記を発見した。しかし、ハーヴェイは銃の携帯のみが咎められ、罰金刑に処されるに留まった。またしても彼は逃げおおせたのである。

 7ケ月後の1986年2月、ハーヴェイはシンシナティのドレイク・メモリアル病院での職を得た。続く13ケ月の間に、彼は少なくとも23人を殺害している。凄まじい頻度である。終点はもうすぐであることが窺える。
 そして1987年4月、急死したジョン・パウエルの検視解剖中に監察医がアーモンド臭に気づいた。シアン化水素が胃液と反応した際の臭いである。かくして毒殺の件で捜査は進められ、遂にハーヴェイは御用となるのであった。

 死刑になることを怖れたハーヴェイは司法取引に応じ、58人の殺害を認めて終身刑となった。しかし、一般にはそれを上回ると信じられている。一説には87人とも云われている。
 数はともかく、問題は動機である。1991年のインタビューの中で彼はこのように述べている。
「私は他人の生死を支配できた。私にはそれだけの力があった。最初の15人の時に捕まらなかったのは、その力を行使する権利があるからだと考えた。私が裁判官であり陪審員だった。つまり、私が神だったのだ」


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)


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