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ジェイムス・ハンラッティ
James Hanratty (イギリス)



ハンラッティの有罪を報じる新聞

 ジェイムス・ハンラッティが処刑された「A6号線殺人事件」は、冤罪の可能性が極めて高いケースである。仮にハンラッティが犯人であったとしても、決定的な証拠なくして死刑を宣告した司法のあり方には疑問を抱かざるを得ない。

 1961年8月22日のことである。マイケル・ジョン・グレグステンは既婚者だが妻とは別居中で、職場での助手のヴァレリー・ストーリーと半年ほど前から恋仲になっていた。その晩、ロンドン西部ドーニー・リーチの麦畑に車を停めた2人がひとときの逢瀬を楽しんでいると、出し抜けにフロントガラスを叩かれた。驚いて車外を見ると、見知らぬ男がこちらに銃を向けている。
「手を挙げろ。これは冗談じゃないぞ。俺はもう4ケ月も逃げ回ってるんだ。云う通りにすれば何もしない」
 男は後部座席に乗り込むと、自らの身の上話をだらだらだらだら2時間にも渡ってしゃべり続けた。ムショから脱走してきた云々。子供の頃から悪かった云々。ネンショーを転々と渡り歩いてきた云々。やがて午前12時近くになって、男は「腹が減った」と車を出させた。

 これからの男の行動は不可解そのものである。一旦ロンドン方面に戻ると、今度は北部へと向わせた。あれこれと指示をしたが、特に目的地があるわけではない。グレグステンは「車は君にあげるから私たちを解放して欲しい」と説得したが、男は何故か受け入れなかった。そしてA6号線をひた走り、「デッドマンズ・ヒル(死者の丘)」の標識を見ると退避車線に停めさせて、グレグステンの後頭部に2発の弾丸を撃ち込んだ。
「撃ったわね! この人殺し!」
 泣き叫ぶヴァレリーを強姦すると、グレグステンの遺体を車から引きずり出すのを手伝わせた。そして、彼女に対しても発砲した。ヴァレリーはその場に倒れたが、まだ死んでいなかった。しかし、男は死んだと思ったようだ。車に乗り込むと、そのまま走り去った。
 ヴァレリーが付近の農民に発見されたのは明け方のことである。ただちに病院に運ばれて一命は取り留めたが、脊椎を損傷しており、下半身不随となってしまった。
 グレスデンの車は、ロンドン北東部の地下鉄レッドブリッジ駅の裏に乗り捨てられていた。また、凶器の銃は、ロンドン市営バスの座席の下から見つかった。



二つの人相書き(左がヴァレリーのもの)


ピーター・アルフォン

 ヴァレリーの証言に基づき「30歳前後、身長170cm、中肉、黒い髪、茶色い眼、イーストエンド訛り」の男の人相書きが作成された。また、23日の早朝にレッドブリッジ駅付近で問題の車が走っているのを目撃したエドワード・ブラックホールの証言に基づく人相書きも作成されたが、ヴァレリーのものとはまったく似ていなかった。そのために、2つの人相書きが並べて手配された。

 まもなく警察の呼び掛けに応じて、フィンズリー・パークにある安ホテルの経営者が通報してきた。フレデリック・デュランと名乗るその男は、事件後の5日間、部屋から一歩も外に出ていないというのだ。尋問すると、本名はピーター・アルフォンであることを明かした。ロンドン警視庁の記録部書記の息子である。そして、事件の日はロンドン北西部メイダ・ベイルのヴィエナ・ホテルに宿泊していたと供述した。

 9月11日、ヴィエナ・ホテルの女経営者が24号室の椅子を動かすと、2個の薬莢が転がり落ちた。それはグレグステンを射殺した銃の薬莢だった。事件の前夜にこの部屋に宿泊していた男は「ジェイムス・ライアン」と署名していた。
 ホテルの夜間担当のマネージャーであるウィリアム・ナッズは、「ジェイムス・ライアン」はアルフォンとは別人で、アルフォンは6号室に泊まっていたと証言した。ところが、後に証言を翻し、アルフォンは事件の当日に24号室を使っていたが、夜になって6号室に移った旨を明かした。かくしてアルフォンが最有力容疑者として浮上した。
 アルフォンが呼び出されて首実検が行われたが、ヴァレリーは、彼女の証言に基づく人相書きにアルフォンがそっくりであるにも拘わらず、別の人物を指差した。一方、ナッズは、アルフォンが24号室に泊まっていたとの証言はデタラメだったことを告白。かくして捜査はふりだしに戻った。

 容疑者は「ジェイムス・ライアン」に絞られた。そして、この男の本名がジェイムス・ハンラッティであることを警察は掴んだ。25歳のハンラッティは、18歳の時からムショとシャバを行き来しているお尋ね者だった。彼を首実検に引っ張り出した警察は、容疑者全員にこう云わせた。
「Be quiet, will you ? I am thinking」
 犯人は「thinking」を「finking」と発音していたのである。そう発音したのはハンラッティだけだった。その上でヴァレリーは彼を指差し、ハンラッティはグレグステン殺害の容疑で起訴された。



ハンラッティを擁護するジョンとヨーコ

 検察側の拠り所は2個の薬莢とヴァレリーの証言のみだった。ヴァレリーは澱みない口調でハンラッティが犯人である旨を証言したが、彼女はアルフォンの首実検の際には別の男を犯人として指差していた。その男は裁判には召喚されなかったので、ハンラッティに似ているかどうかは判らない。
 ヴァレリーが犯人の顔をはっきりと見たのは、対向車のヘッドライトに照らされた一瞬だけだった。また、彼女は当初、犯人の眼を「茶色」と証言していたが、後に「青」と訂正している(ハンラッティの眼は青だった)。更に、彼女の証言に基づく人相書きは、ハンラッティには似ていない。むしろ嫌疑が晴れたピーター・アルフォンに似ている。つまり、彼女の証言はあまり当てにならないのである。
 また、自動車泥棒を数多く働いていたハンラッティは熟練した運転手だったが、犯人はそうではなかった。ヴァレリーを撃つ前にギヤの使い方を教わっていたのだ。

 一方、ハンラッティ側の弱みはアリバイだった。彼は事件当日はリバプールにいたと主張したが、誰と何処にいたかは話そうとしなかった。裁判がかなり進んだ時点で、実は盗品を捌くためにリールにいたと明かしたが、その信用性は担保されなかった。
 そして1962年2月17日、陪審員は有罪を評決し、4月4日にハンラッティは絞首刑に処された。
 ちなみに、英国で死刑執行が停止されたのは、その3年半後の1965年11月9日のことである。

 ハンラッティの処刑後、リールでのアリバイ証人が何人も現れ、その冤罪の可能性が濃厚になっていった。ジョン・レノンまでもが事件の再審を求める団体を支援した。1969年に死刑制度の復活を求めた下院の動議が否決されたのは、レノンがハンラッティを擁護したことの影響が大きいと云われている。

 更に、ハンラッティの処刑後、前述のピーター・アルフォンが真犯人として名乗りを上げた。彼に関しては「単なる出たがり屋」との批判もあるが、彼を真犯人とした方が筋が通るのは確かだ。薬莢はハンラッティをハメるために仕込んだものと考えられるし、彼も「finking」と発音するのだ。そして何よりも説得力があるのは、彼の口から出た「動機」である。

「或る人物からグレグステンとヴァレリーの関係を終わらせれば5000ポンド支払うと云われたんだ。そして、銃を手渡された。はっきり殺せと云われたわけじゃない。ただ『どういう意味か判るね?』と云われただけだ」

 しかし、公式にはハンラッティは有罪のままである。


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社)
週刊マーダー・ケースブック28(ディアゴスティーニ)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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