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フリッツ・ハールマン
Fritz Haarmann (ドイツ)



ハールマンと人骨が発見されたライネ川


犯行現場の屋根裏部屋

 1924年5月17日、ライネ川で遊ぶ子供たちは面白い物を発掘した。人間の頭蓋骨である。子供たちはこの発掘物に喜び、競い合って探し始めた。昨日はハンスが1つ見つけた。今日はマレーネが2つ見つけた。警察も最初は医学生のイタズラだと思ったらしい。しかし、ロベルトが袋に人骨がいっぱいの「大漁」を掘り当てるに及んで、これはただごとではないと思い腰を上げた。
 いざ捜索を始めてみると出るわ出るわ、ハノーバー全域から大量の人骨が発掘された。ゲオルグ・カール・グロスマンの事件が記憶に新しい。新たな「肉屋」の恐怖がドイツ中を駆け抜けた。
 そんな中で6月22日、フリッツ・ハールマンが逮捕された。彼の「人肉売買」は以前から噂されるところであった。しかし、そんな不穏な噂にも拘わらずこれまで警察が動かなかったのには、それなりの理由があった。

 ハールマンは1879年10月25日、機関士である父と、病気がちな母の第6子として生まれた。母は彼を産んでからは死ぬまで寝たきりとなった。故に夫婦仲は悪く、何かにつけて喧嘩をした。優しいフリッツ少年は母親の肩を持ち、次第に父親を憎むようになった。彼は人形遊びを好み、粗野な遊びの一切を嫌悪した。
 16歳になった彼は陸軍の下士官学校に入れられた。軟弱な彼を父親が見かねたのである。しかし、癲癇の発作を起こして退学。この挫折はフリッツ少年の心的外傷となる。彼は生涯、自分は精神障害者なのだとの自覚に苦しめられることになる。
 この心的外傷が原因であろうか。フリッツ少年はどうしようもなく怠惰な人間に成長していた。父親に無理矢理入れられた葉巻工場も欠勤しがち。児童公園に出向くと幼児に猥褻行為を強要した。これが発覚し逮捕。そして精神病院に送られた。しかし、彼は「手の施しようがないほどの意志薄弱」ではあるが精神異常ではないとの診断。
「お前はただ怠け者なだけなんだ」
 父親は説得したが、フリッツは自分は精神障害者だと主張し、働くことを拒否した。

 20歳になったフリッツはエルナという女性と同棲を始めた。彼女が妊娠するとフリッツは中絶を勧めた。理由は障害者の血を残してはならないとのことだった。そして、現実から逃げ出すように陸軍に入隊。彼は後に軍隊で送った日々を「人生で最も幸福な時」だったと語っている。
 しかし「幸福な時」は長くは続かなかった。神経衰弱に陥り数年後に除隊。彼が再び深く傷ついたことは云うまでもない。
 ハールマンが同性愛に目覚めたのはその直後、25歳の時だった。彼は闇市で知り合った中年男に犯された。それからの彼はやぶれかぶれ。墜ちるところにまで墜ちて犯罪者の仲間入りをした。
 強盗や強制猥褻で出入獄を繰り返していたハールマンは、大戦中をほとんど獄中で過ごした。そして敗戦後の1918年、出獄した彼が見たものは、彼の心象風景と同じくらいに荒んだ光景であった。



犯行現場の屋根裏部屋


ハンス・グランスと犠牲者の骨

 監獄仲間の手引きで肉の密売を始めたハールマンは、天性の商才があったのか、すぐに自分の屋台を持つようになった。否。商才というよりもズル賢さと云うべきか。彼は警察の頼もしい「情報屋」となり「お目こぼし」で暮らしていたのだ。人々は彼を尊敬を込めて「ハールマン刑事」と呼んだ。彼によくすればそれなりの見返りがあったからだ。警察も彼の提供する情報に重宝した。そんなわけで、彼は闇市の顔役となった。真夜中になるとハノーバー駅で家出少年を補導する彼の姿がよく見られた…。

 ハールマンの最初の犠牲者は1918年に失踪したフリーデル・ロテだと云われている。家出少年の行方を探していた両親は、息子と思しき少年が「刑事に補導された」との情報を入手、早速警察に足を運んだ。警察はその「刑事」がハールマンであることはすぐに判った。大事な情報屋だが仕方がない。寝込みを襲って踏み込むと、彼は別の少年とベッドの中で戯れていた。現行犯なので目をつぶるわけにもいかず、ハールマンは猥褻罪で逮捕された。警察は問題の家出少年もこうして彼に犯されて、涙ながらに逃げ出したのだと推測した。しかし、4年後に再び逮捕されたハールマンは、実はあの時、その少年の頭部は新聞紙に包んでレンジの裏に隠してあったと告白した。

 9ケ月後に釈放されたハールマンは、久しぶりのシャバで運命共同体とも云うべき相棒に出会う。ハンス・グランスである。まだ16歳の彼は、ハールマンの更に上を行く外道だった。強盗恐喝は朝飯前、美少年の彼は完全にハールマンを支配し、その殺人衝動を己れの利益に利用した。
 彼らの手口はいつも決まっていた。まず、駅で家出少年を補導する。アパートに連れ込み強姦、最中にハールマンが喉笛を喰いちぎって殺害する。それから死体を捌いて屋台で売る。余れば他のルートで売り捌く。遺留品も屋台で売る。中にはグランスが欲しい衣服を着ているという理由だけで殺された者もいた。
 こんな大胆な犯行であったから、彼らは何度か危ない橋を渡っている。例えば、血がいっぱいのバケツをさげてアパートから出てくるところを隣人に見られたこともあった。しかし、ハールマンは肉の密売人なので、これはたいして怪しまれずに済んだ。
 また、彼から肉を買った婦人が「人肉じゃないかしら」と警察に届けたこともあった。しかし、ハールマンは重宝な情報屋だ。なるべく泳がしておいた方がいい。警察は豚肉であることを保証して婦人を帰した。
 1918年から1924年にかけて、ハールマンが喰いちぎった喉笛は数知れない。明らかに彼が関与した失踪者は27人。しかし、一般には50人は下らないと信じられている。

 ハールマンの逮捕は意外に呆気なかった。大量の人骨を発掘した警察は当初からハールマンを疑っていた。しかし、証拠がない。そんな時、「ハールマン刑事」に逆らった或る若者が、偽造証明書を所持していることを理由に、ハールマン自らの手により鉄道公安官に突き出された。その若者を取り調べると、彼は過去にハールマンに犯されたことを証言した。これは好機と早速ハールマンに出頭を求め、その間に彼のアパートを捜索した。すると出るわ出るわ、被害者の衣類や身分証明書、そして多くの血痕が発見された。
「旦那も御存じの通り、あっしは肉屋ですからねえ。血痕があってもなんの不思議もありません。服だってそうですよ。あっしは 古着屋もやっていましたから。それに旦那、あっしは御同業の刑事ですよ。だから身分証明書も持っているわけです。それはみんなあっしが押収した偽造品ですよ」
 ハールマンは当初はこんな調子でのらりくらりと取調べを躱した。しかし、1週間を過ぎた頃、その犯行の一切を自供した。
「死体の売り物にならない部分は棄てました。彼らはみな痩せていたので、私が食べてしまうと売り物になる部分はそんなには残りませんでした」
 いったん自供を始めるとこの「肉屋」は饒舌になった。そしてこんなトンデモない言葉で自供を締めくくった。
「そんな訳でねえ、旦那、死体はいくらあっても足りなかったんですよ」



盗み撮りされた法廷でのハールマン

 1924年12月4日から始まったハールマンの裁判は14日興行の茶番劇だった。審理の手順はハールマンが仕切り、彼は法廷で煙草を吸うことも許された。何故か? 警察としては、彼が警察の情報屋で、「刑事」を名乗ることさえも許されていたことをバラされたくなかったからである。この御機嫌取りは効を奏した。ハールマンはすべてを自供し、しかし、余計なこと、つまり自分の警察との関係については押し黙った。
 証人喚問もハールマン自身が行った。
「さあ、頼んだぜ。知ってることを全部吐き出してくんな。俺たちは真実を知るためにこうして集まってんだからさあ」
 こんな傍若無人な態度にも判事たちはただ「うんうん」と頷くだけだった。
 こんなエピソードもある。公判の第1日目、傍聴席を見渡したハールマンは女性が多いことに不平を述べた。
「おいおい、こんな惨い事件は女性が聴くもんじゃねえぜ。帰ってもらってくんな」
 判事には傍聴人を合理的な理由なく退席させる権限はない。彼はその旨を告げてハールマンに頭を下げた。
 また、或る時などはハールマンは、殺された少年の両親を前にしてこんなことを宣った。
「俺にも趣味ってえもんがあるんだ。あんたの息子、写真で見たが何だありゃあ。あんな不細工な生き物、俺が喰うわけねえじゃねえか」
 その通り。こう見えてもハールマンは美食家だったのである。

 ハールマンは24件の殺人について有罪となり死刑を宣告された。1925年4月15日にギロチンで処刑されている。


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『カニバリズム』ブライアン・マリナー著(青弓社)
週刊マーダー・ケースブック22(ディアゴスティーニ)
『猟奇連続殺人の系譜』コリン・ウィルソン(青弓社)
『死体処理法』ブライアン・レーン著(二見書房)
『食人全書』マルタン・モネスティエ著(原書房)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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