ゲイリー・ギルモアが起こした事件自体はこれと云って特筆に価するものではない。ありふれた事件である。ただ、彼は死刑反対の風潮に逆らって、己れを死刑にするように要請したことで世間の耳目を集めた。ギルモアへのインタビューに基づき執筆されたノーマン・メイラーの『死刑執行人の歌』はピューリッツァー賞を受賞している。
1940年12月4日、テキサス州ウェーコで生まれたギルモアは、10歳で盗みを始め、成人してからは8ケ月以上続けてシャバにいたことは一度もなかった。感化院、州刑務所、連邦刑務所と一通りの更正施設のお世話になり、人こそ殺したことはなかったが、一通りの犯罪を犯していた。仮釈放になっても身元引受人のなり手がいなかったのも無理はない。ユタ州オレムに住む従姉妹のブレンダ・ニコルがようやく好意で引き受けたが、結果として彼女を裏切ることとなった。
やがてギルモアはニコール・ベイカーという女性と出会い、同棲を始める。しかし、手癖の悪さは相変わらずだった。それが欲しいわけでもないのに、習慣で盗んでしまう。仮釈放中の身である。ニコールは毎日のようにハラハラしていた。そして遂に愛想を尽かして出て行ってしまう。自棄になったギルモアが初めて殺人を犯すのはこの直後である。
1976年7月19日、ニコールを探して夜の町を流していたギルモアは、衝動的にガソリンスタンドを襲い、アルバイトのマックス・ジェンセンから125ドルを奪った。そして床にうつ伏せになるように命じ、後頭部に銃口を押しつけると引き金を引いた。
「この1発は俺のため」
ズドン。
「この1発はニコールのため」
ズドン。
当然、即死だった。
翌日、隣町のプローボでギルモアはまたもや衝動的にモーテルを襲い、管理人のベン・ブッシュネルを昨日と同じように殺害すると、手提げ金庫を奪って逃走した。中に入っていたのは、偶然にも昨日と同じ125ドルだった。
逃げ去るギルモアの姿はブッシュネルの妻に目撃されていた。慌てたギルモアは銃を捨てようとしたが、引き金が木の枝に引っ掛かって暴発した。弾はギルモアの手を貫通し、結果として、そのために彼は御用となった次第である
死刑を宣告されたギルモアはそれを受け入れ、銃殺刑を選択した(ユタ州では絞首刑と銃殺刑を受刑者が選択できる)。刑の執行は1976年11月15日と定められた。
ところが、アメリカではここ10年間、死刑が執行されていなかった。世界的な死刑反対の風潮に従い、死刑そのものを廃止する州も増えていた。また、米国自由人権協会と全米黒人地位向上協会という2大圧力団体がギルモアの死刑執行に反対の意思を表明した。さらに、弁護人も当然の権利として控訴を予定していた。これにギルモア自身が「待った」をかけた。
「俺はこれまで18年刑務所にいたが、これから更に20年も刑務所で暮らそうなんて思わない。こんな穴蔵で生き延びるよりも、直ちに死なせていただきたい」
そして、これまでの弁護人を解雇して、死刑に対して理解を示す奇特な弁護士、デニス・ボアズを雇い入れ、上訴撤回権を勝ち取った。しかし、それでもランプトン知事が恩赦を下し、刑の執行を延期される。幻滅したギルモアは、ニコールに頼んで睡眠薬を届けさせ、2人で同時刻に飲んで心中を図るも、共に死にきれなかった。
この頃にはギルモアはマスコミの注目の的になっていた。「死刑を要求する死刑囚」に全米の市民が関心を抱いた。機を見るに敏な興行師ラリー・シラー(1963年にマリリン・モンローのヌード写真を『プレイボーイ』誌に2万5千ドルで売ったことで知られる)はギルモアと接触し、その伝記の出版と映画化の権利を買い取った。結果、出版されたのが前述のノーマン・メイラー著『死刑執行人の歌』である。
最終的に「死ぬ権利」を勝ち取ったギルモアは、1977年1月17日にようやく処刑された。
なお、『死刑執行人の歌』は1982年にTVムービー化されている。ギルモアはトミー・リー・ジョーンズ、ニコールはロザンナ・アークエットが演じており、この配役は絶妙である。
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