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レオ・フランク
Leo Frank (アメリカ)



メアリー・フェイガン


遺体のそばに落ちていたメモの一つ

 それは1913年4月26日土曜日、南部諸州の住民が南北戦争の戦没者を追悼する祭日の出来事だった。ジョージア州アトランタに住むメアリー・フェイガン(13)がパレードを見に出掛けたまま行方不明になった。そして翌日未明、彼女の勤務先であるナショナル鉛筆工場の地下で冷たくなって発見された。
 通報者は夜警のニュート・リーという痩せた初老の黒人だった。彼の供述によれば、午前3時頃、地下にある黒人専用便所から出て来たところで何かにつまづいた。目を凝らして見てぶったまげた。白人の女の子ではありませんか。た、た、たいへんだあ。犯人だと疑われたら何をされるか判らない。しかし、このままでは余計に疑われる。悩みに悩んだ末に警察に通報した。供述している最中も、彼はガクガクブルブルと震えていた。
 遺体の後頭部には打撲傷があり、髪は流れ出た血で固まっている。スカートは腰までまくり上げられていたが、強姦はされてはいない。床を引きずられたのか、顔は擦り傷だらけ。首は紐で縛られていた。
 遺体のそばには2枚のメモが落ちていた。

「ママ、あのくろんぼがこんなことしたの。みずをのみにいったら、あなにつきおとしたの。せのたかいやせたくろんぼよ。わたしにいたずらしてるすきにこれをかいたの」
(Mam that negro hire down here did this i went to make water and he push me doun that hole a long negro black that hoo it was long sleam tall negro i wright while play with me.)

「かれはあいしてるからしたであそぼうといった。ナイトウィッチがしたように。だけど、あのせのたかいくろんぼはじぶんでかったの」
(He said he wood love me and land doun play like night witch did it but that long tall black negro did buy his slef.)

 間違いだらけの稚拙な文章である。しかし、13歳の娘が暴行されている最中にこれを書く余裕があったとは到底思えず、擬装の線が濃厚である。「ナイトウィッチ」は直訳すると「夜の魔女」だが「ナイトウォッチ=夜警」の誤字と思われ、だとすれば「せのたかいやせたくろんぼ」は発見者のリーということになる。つまり、これは彼に罪を着せるために犯人が書いたものと考えられるが、一応、念のために警察はリーをしょっぴいた。

 その日の午後にはアトランタ中が事件の話題で持ち切りになった。やがて情報提供者に報奨金が支払われる旨が報じられると、根も葉もない噂が飛び交った。曰く「メアリーは奴隷商人に殺されたのだ」。曰く「数人の男たちに拉致されているのを見た」。自称「霊能者」が霊視した犯人の人相を警察に届け出て、金をせびったりもしたというから迷惑な話である。

 検視解剖の結果
、メアリーは朝食後、間もなく殺害されたことが判明した。
 朝食を食べて家を出た彼女は、パレードを見に行く前に鉛筆工場に寄った。正午過ぎのことである。前日に休んだ彼女は、今週分の給金を貰いに行ったのだ。そして、事務室で工場長のレオ・フランクから給金1ドル20セントを受け取った。以降、彼女の足取りは途絶えた。
 つまり、メアリーはフランクと出会った直後に殺害されたのだ。しかも、その日は祭日ということで、彼の他には数名しか出社していなかった。かくしてレオ・フランクがメアリー殺しの最有力容疑者として浮上したのである。



レオ・フランク

 4月30日、レオ・フランクが逮捕されると、彼に不利な証拠や証言が続々と集まり始めた。
 まず、フランクが逮捕される2日前、工場の機械工が旋盤の上に髪の毛がごそっと落ちているのを発見した。彼はまた事務室付近の床に血痕らしき染みを発見している。
 次に、自称「メアリーのボーイフレンド」のジョージ・エプスという新聞売りの少年が、メアリーは以前からフランクにつきまとわれていたと証言した。
 また、売春宿のおかみ、ニーナ・フォーンビーは、事件があった土曜日にフランクから電話があり、「少女を連れて行きたいんだが部屋はあるか」と訊かれたと証言した。その日は満室だったので断った。彼女によれば、フランクは店の常連で、かなりの変質者だったという。
 決定的だったのは、フランク家のメイドであるミノラ・マクナイトの署名入りの供述書である。彼女はこの中で、事件があった日にフランクが泥酔して帰宅し、翌朝になって「少女を殺してしまった。自殺したい」と妻に告白していたと述べている。

 これだけの証言が揃うと、下手人はレオ・フランクに間違いないかに思われる。しかし、忘れてはならないのは「情報提供者には報奨金が支払われる」ことである。彼らは報奨金欲しさに証言をでっち上げた可能性もあるのだ。
 また、メイドのミノラ・マクナイトに関しては、警察が供述書をでっち上げた可能性が高い。何故なら彼女は文盲で、署名することさえ出来なかったのである。
 では、どうして警察はフランクを犯人にしたかったのだろうか? それは、フランクがユダヤ人だったからである。

 メアリー・フェイガンの殺害が南北戦争の戦没者慰霊祭の日に起きたことは極めて象徴的である。この事件の背景には南北戦争の影響が色濃く反映されている。
 黒人奴隷制を巡る争いに敗北した南部諸州は、従来の奴隷制に基づく大農場経営が破綻して貧困に喘いでいた。一方で、勝利した北部諸州は、近代的な工業化により大いに潤っていた。その中心にいたのがユダヤ系財閥である。つまり、南部の人々にとってはユダヤ人こそが諸悪の根源だったのだ。そんな世相の中で、健気に働く南部の娘がユダヤ系の工場で惨殺された。「ユダヤ人に殺された」という偏見が、次第に確信へと変わって行ったのである。



ジム・コンリー

 やがて警察は「レオ・フランクの共犯者」としてジム・コンリーという黒人を逮捕した。彼は鉛筆工場で清掃などの雑用をしていたが、暴力事件の前科があり、女工の間では当初から犯人ではないかと疑われていた人物だった。
 彼が逮捕されたのは、その筆跡が現場に残されていたメモのそれと酷似していたからである。コンリーは当初は否定していたが、やがて「フランクさんに頼まれてあれを書いた」と供述した。そして、フランクと共にメアリーの遺体を地下室に運んだことを認めた。

 7月28日から始まったレオ・フランクの裁判において、ジム・コンリーは饒舌に犯行の模様を証言した。
「その日の昼過ぎ、あっしがウトウトしていると、事務所からあっしを呼ぶ声が聞こえました。2階に上がって事務所に顔を出すと、フランクさんがガクガクと震えながらこう云うんです。『あの娘と仲良くしたかったのに、断られたので殴ってしまった』」
 コンリー曰く、ここでいう「仲良くしたい」とは「フェラチオさせたい」という意味らしい。
「で、機械室に行ってみるとメアリー・フェイガンが死んでいました。ぶったまげましたよ。時刻は12時56分でした。その時、時計を見たんで憶えております、へい。
 あっしは遺体を麻袋にくるんでエレベーターで地下室まで運び、そこで死体を転がしました。事務所に戻るとお客が来ていたんで、フランクさんが応対している間は隠れていました。そいでお客が帰ると、フランクさんはあっしを呼んで、あのメモを書かせたんです、へい」

 コンリーの証言にはおかしな点がいくつもある。
 まず、検察側の主張によれば、フランクは午後1時10分に工場を出たことになっている。しかし、コンリーによれば、彼が死体を見せられたのは12時56分である。つまり、僅か14分の間に遺体を地下室まで運び、接客し、そしてメモを書かせたことになる。検察側は「出来ないことはない」と云い張ったが、実際にコンリーにメモを書かせてみると、1枚書くのに数分かかった。
 そして、コンリーによれば、殺害現場は機械室ということだが、旋盤の上で発見された(とされる)髪の毛は鑑識によりメアリーのものではないことが判明していた。つまり、その髪の毛は機械工が報奨金欲しさにでっち上げたものだったのだ。にも拘わらず、コンリーは機械室を現場として証言している。検察側がコンリーに知恵をつけた可能性が高い。
 なお、検察側は旋盤の上の髪の毛がメアリーのものではなかったことを知っていながら、裁判においては一言も触れなかった。弁護側にも教えなかった。だから、弁護側はそのことを突っ込めなかった。

 陪審員の判断はコンリーの証言を信じるか否かにかかっていた。そして、最終的に信じて有罪を評決、レオ・フランクに死刑を宣告した。これは南部においては前代未聞の出来事だった。なにしろ黒人の証言により白人が死刑を宣告されたのだ。それほどにユダヤ人排斥主義が蔓延していたということなのだろう。しかし、決して黒人を認めたわけではないことは地元紙の社説を見れば明らかだ。
「無知な黒人があれほど詳細な話をでっち上げることは不可能だ。故にレオ・フランクがメアリー・フェイガンを殺害したことは紛れもない事実なのだ」



リンチされたレオ・フランクと野次馬


リンチされたレオ・フランクと野次馬

 もっとも、南部の人々が皆一様に偏っていたわけではない。中にはマトモな人もちゃんといた。ロウン裁判長もその1人だ。彼は裁判過程における報道を目にしながら、陪審が無罪を評決すればフランクがリンチに遭うことは間違いないだろうと危惧していた。だから、弁護側の再審請求も棄却した。そして、政治的な決着を見ようとしたのである。
 お鉢が回って来たのはジョン・ストレイン州知事である。北部12州の知事と上院議員、そして100万人を越える市民が署名した減刑嘆願書が彼のもとに届いていた。しかし一方で、ジョージア州においてはほとんどの州民がフランクの処刑を望んでいた。知事は悩みに悩んだ末、
「もし、このままあの男を絞首台に送ったら、私は殺人者になってしまう」
 と、終身刑への減刑を決定。これに反撥する州民たち。やがて囚人の一人が行動に出る。フランクの寝首を掻き切ったのだ。2週間も生死の境を彷徨ったフランクは、どうにか回復に向かい始めていた。その矢先に事件は起きた。

 1915年8月16日、刑務所内の病棟から退院できるまでに回復したフランクは「メアリー・フェイガンの騎士」を名乗る総勢25名の武装集団に拉致された。そして、メアリーが子供の頃に遊んでいたフレイの森で「絞首刑」に処された。落下の衝撃で首の傷口が裂け、血が流れ出した。左の白黒写真では判らないが、極めて凄惨なリンチ現場だった。

 メアリー・フェイガンを殺害したのはジム・コンリーであることは間違いないだろう。しかし、メアリーの遺族は今もなおレオ・フランクが犯人であると信じている。地元ではこのような歌が歌い継がれている。「メアリー・フェイガンのバラード」である。

 小さなメアリー・フェイガンは
 或る日、街に出掛けた
 給料を貰うために鉛筆工場に行った
 家を出たのは11時
 ママにさよならのキスをした
 かわいそうな少女は夢にも思わなかった
 それが死への旅になろうとは

 レオ・フランクは少女に会った
 獣の心を抱いてニヤリと笑った
 小さなメアリーに彼は云った
「お前はもう家には帰れない」
 少女は跪き レオ・フレンクに懇願した
 彼はゴミの山から板を拾い
 少女の頭を殴りつけた

 少女の母は涙に暮れた
 1日中 娘を思って泣いた
 いつかもっと幸せな国で
 娘と会えることを願って
 私は思う
 フランキーが天の裁きを受ける時のことを

 天使たちの言葉に彼は驚くことだろう
 どうやってメアリーをお祭りの日に殺したのか
 判事は判決を下した
 とても立派に宣告した
 天のクリスチャンたちは
 レオ・フランクを地獄に送った

 レオ・フランクを地獄に送った「メアリー・フェイガンの騎士」は、後に復活した「KKK」へと発展した。つまり、本件は現代アメリカの闇を象徴する事件だったのである。


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
週刊マーダー・ケースブック56(ディアゴスティーニ)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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