移転しました。https://www.madisons.jp/murder/text/camb.html

 

ジェイムス・キャム
James Camb (イギリス)



ゲイ・ギブソン


ギブソンが消えた126号室

 1947年10月19日、一人の女優が大西洋上で消えた。彼女の名はアイリーン・イザベラ・ロニー・ギブソン。ゲイ・ギブソンの芸名で南アフリカの舞台やラジオで活躍していた。

 英国行きの定期船ダーバン・キャッスル号がケープタウンを出航したのは10月10日のことである。洋上は穏やかで、何事もなく18日を迎えた。ギブソン嬢は深夜の0時40分まで乗客のフランク・ホップウッド、ブレイ英空軍中佐の2人と共にレストランで食事とダンスを楽しんだ後、自室に戻った。
 午前3時頃、配膳室で呼び出しベルが鳴った。ギブソン嬢の部屋だ。当直のフレデリック・ステアが126号室に駆けつけたところ、旅客係を呼ぶランプも点灯していた。ドアをノックすると、顔を出したのは旅客係のジェイムス・キャムだった。船員たちから「バレンチノ」と呼ばれている人物である。
「大丈夫だ。なんでもない」
 そう云うとキャムはドアを閉めた。やれやれ、またチョメチョメかい。この件は当直主任に報告されたが、それ以上の措置は取られなかった。客が船室で何をしようと自由だからだ。

 翌朝、ギブソン嬢は朝食の席に姿を現さなかった。部屋にもいない。行方不明になってしまった。過って海に転落したのではないかと考えた船長は、船を旋回させて付近一帯を捜索したが、彼女の姿を見つけることは出来なかった

 さて、そこで浮上するのが昨夜の一件である。当直主任は船長に報告し、直ちにキャムが呼ばれた。彼は関与を否定したが、手首に爪で引っ掻いたような傷があった。誰がどう考えてもこいつが怪しい。キャムはサザンプトンに入港すると同時に警察に引き渡された。

 キャムの弁明はこのようなものであった。

「あの晩、私はギブソンさんと甲板ですれ違いました。私が『お飲物をお持ちしましょうか?』と声をかけると、彼女は『お願いするわ』と答えました。午前2時頃に126号室のドアをノックすると、彼女は快く迎えてくれました。10分ほど談笑した後、私たちは前戯に及びました。ところが、いざ性器を挿入すると、彼女が突然、心臓発作を起こしたのです。息を詰まらせたように苦しんでいました。そして、一瞬強張ったかと思うとぐったりしました。脈がありません。私は人口呼吸や心臓マッサージを施しましたが無駄でした。
 もう生き返らないと悟ると、震えが止まらなくなりました。このままでは私が疑われる。私はパニック状態に陥りました。その時、私の視界に舷窓が飛び込んで来たのです。そうだ。過って海に落ちたことにすればいい。私は彼女のからだを抱きかかえると、舷窓から海に突き落としました」

 検察側はこの弁明を信じなかった。ベッドのシーツには血が混ざった唾液と失禁の痕跡が残っていたのだ。これは扼殺の特徴と一致する。
 また、キャムの弁明では呼び出しベルの件が説明できない。キャムに襲われたギブソンが咄嗟にボタンを押したと考えるのが自然である。
 かくしてキャムはゲイ・ギブソンの殺害で有罪となり、死刑を宣告された。ところが、折しも議会では死刑廃止について審議中で、そのために減刑されて終身刑になった。結局、その時は死刑は廃止されなかったので、キャムは幸運にも一命を取り留めたことになる。

 これは裁判後に発覚したことだが、キャムは過去に3度も客室に入り込んで強姦しようとしたことがあった。常習犯だったのだ。被害者が届け出なかったために彼はそのまま働き続け、遂にゲイ・ギブソンを殺害したのである。
 キャムは1959年9月に仮釈放されたが、1967年に13歳の少女に対する強姦未遂で再び逮捕された。その執行猶予期間中にまたしても未成年者への猥褻行為で逮捕されて終身刑に処された。懲りないっちゅうか、こうなると病気ですな、病気。


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『死体処理法』ブライアン・レーン著(二見書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


counter

BACK