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ポール・ベルナルド
カーラ・ホモルカ

Paul Bernardo & Karla Homolka
a.k.a. The Scarborough Rapist (カナダ)



カーラ・ホモルカとポール・ベルナルド

 2005年7月、カーラ・ホモルカが刑期を終えて出所した。ちょっと早い気がする。伝え聞くところによれば、彼女は反省しているようには見えないという。再びポール・ベルナルドのような男と出会わないことを祈るばかりである。
 ポールとカーラは誰もが羨むベストカップルだった。少なくとも見かけだけは。しかし、左の写真が撮られた時点で、既に1人の少女を誘拐し、拷問した上に陵辱し、バラバラにして遺棄していたのである。しかも、彼らはその模様をビデオで撮影していたのだ。その笑顔と所業のギャップには戦慄を覚える。

 2人が出会ったのは1987年、ポールが23歳、カーラが17歳の時である。カーラはたちまち男前の公認会計士に夢中になった。何を見てもポールに見える。ポールのことしか考えられない。彼女の卒業アルバムにはこうある。
「一番の夢は、ポールと結婚して、週に2回以上デートすること」
 この他にも「今、最も気になること」は「トロントの某公認会計士」、「人生で最も影響を受けた人」は「ポール」。これでもかと云わんばかりに彼氏のことで一色である。恋は盲目とはよく云ったものだが、彼女のこの気持ちは純愛に基づくものではない。2人は既にアナルセックスまで許す仲になっていたのだ。肉欲の虜となっていたのである。

 カーラ・ホモルカは1970年5月4日、オンタリオ州ポート・クレディットで生まれた。父はチェコスロバキアからの亡命者で、幼年期はトレーラー・パークで暮らしていたというから余り恵まれた環境ではない。しかし、妹のロリとタミーが生まれる頃には両親の商売も軌道に乗り始め、やがて中流の仲間入りを果たした。高校では「ダイアモンド・クラブ」というエリートのサークルに所属する傍ら、近所の動物病院で助手としてアルバイトをしていた。そして、トロントで開かれた獣医たちの集会に参加したことでポールと出会うことになる。

 一方、ポール・ベルナルドは1964年8月27日、スカーボロの裕福な家庭の末っ子として生まれた。ところが、その内情は恵まれてはいなかった。公認会計士だった父ケネスは母マリリンを虐待した。彼女は昔の男友達に救いを求め、挙句に身籠ったのがポールだったのだ。ケネスは寛容にもポールを我が子として受け入れたが、虐待は増すばかりだ。マリリンの精神は次第に病んでいった。
 ケネスという男の悪行はこれだけに留まらなかった。彼はご近所を覗いて回るようになり、勢い余って少女たちにイタズラした。それだけではない。最悪なことに彼は己れの娘にもイタズラしていたのである。
 母から「お前はお父さんの子じゃないんだよ」と暴露されたポールの衝撃たるや如何ばかり。彼も父親同様に女性を蔑視する人間に成長した。そして、父同様に覗きに出歩き、遂には強姦を始める。後に「スカーボロ・レイピスト」と呼ばれることになるポールの最初の犯行は、カーラと出会う直前のことだった。



カーラ・ホモルカとポール・ベルナルド

 とにかく、ポール・ベルナルドという男は過剰な性欲を持て余していた。カーラだけでは彼の欲求を満たすことは出来なかった。今やポールの性奴と化したカーラは、彼のために女を調達した。その中には妹タミーの友達も含まれていたというから呆れてしまう。また、彼女はポールが「スカーボロ・レイピスト」であることを知った上で、その犯行を幇助していたようだ。犠牲者の1人が現場でビデオを撮影する女を目撃しているのである。

 更に驚くべきことに、カーラは妹のタミーまでも差し出した。1990年12月23日、自宅の地下室でタミーとビデオを見ていたカーラは、彼女のカクテルに動物用の睡眠薬を混入。タミーはたちまち昏睡状態に陥り、ポールに後ろから前から陵辱された。カーラはいつものようにビデオの撮影係である。ところが、事が終わるとタミーは息をしていなかった。吐瀉物を気管に詰まらせて窒息したのである。慌てて救急車を呼んだが既に手後れ。かくして、意図していなかったとはいえ2人は最初の殺人を犯す。しかし、事故死扱いとなったので、その責任を問われることはなかった。

 タミーの死は2人に絆を齎した。いい意味にではない。「もはや別れるに別れられない」という意味である。やがて2人は親元を離れてポート・ダルハウジーに移り住み、1991年6月29日に結婚式を挙げた。ここでようやく冒頭のにこやか写真とあいなるわけであるが、2人が馬車に乗り込み、満座の祝福を浴びていたまさにその時に、ギブソン湖畔ではレズリー・マハフィー(14)のバラバラ死体が発見されていたのである。1992年4月30日にはクリステン・フレンチ(15)の全裸死体が排水路で発見された。後に判ったことだが、彼女は13日にも渡って拷問されて陵辱されていたのだ。人間の所業とは思えない。



カーラ・ホモルカ

「ポールとポーラ」ならぬ「ポールとカーラ」が破滅へと突き進んでいることは明らかだった。この頃にはポールは会計事務所を辞め、アメリカからの酒や煙草の密輸で生計を立てていたのだ。また、カーラに対する暴行も甚だしく、彼女が殺されるのも時間の問題だった。
 1993年1月5日、瀕死の目に遭ったカーラは、命からがら実家に逃げ込み、警察に通報した。「殺されるくらいなら捕まった方がマシ」といった心境だったのだろう。一方、トロント警察はようやく「スカーボロ・レイピスト」の容疑者をポール・ベルナルドに絞り込んでいた。その容疑は実に43件にも及んでいた。これに加えてレズリー・マハフィーとクリステン・フレンチの殺害を立証するとなるとカーラの証言なくしては不可能だ。かと云って、殺人に関与している彼女を不問にするわけには行かない。そこで採られた司法取引が12年の禁固刑。彼女が早々と出所したのはそういう訳だったのである。

 カーラの裁判に際しては全面的に報道が規制された。その根拠は「続くポール・ベルナルドの公正な裁判の確保」だが、本当のところは「司法取引があったことの隠蔽」だったと思われる。ポールの弁護人はこの旨を目敏く指摘し抗議したが、結局、報道規制は押し切られた。
 かくして、カナダ中が注目しているにも拘わらず、カナダ人はその内容を誰も知らないという異例の事態が勃発した。報道規制はアメリカのメディアには及ばないので、興味津々の人々はわざわざ国境を越えて『ニューズウィーク』を買った。文明の利器、インターネットも大騒ぎに一役を買った。心無い野次馬どもの興味の対象は「スナッフ・ビデオは存在するのか?」。ネット上では様々なガセネタが飛び交い、「日本のヤクザが買いました」とまことしやかに報じられていたという。笑止。

 なお、ポール・ベルナルドは終身刑に処された(カナダには死刑はない)。当然だが、それにしてもカーラの出所は早過ぎる。彼女は妹の死をどのように受け止めているのだろうか?


参考文献

『世界を凍らせた女たち』テリー・マナーズ著(扶桑社)


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