東京ばたばた日記 1

2001年10月19日(金)〜21日(日)

二紀展自由美術展独立展創画展
MOMA展小川マリ安田侃カラヴァッジョ展手探りのキッス―日本の現代写真
川俣正高橋三太郎20世紀イタリア美術村上隆
キリンアートアワード横浜トリエンナーレ

 ったことを考えたり、総合的な文章を書いたりする余裕がないので、見た順番に書いていくことにする。
 ただし、これは「ほっかいどう・あーと・だいありー」なので、東京とはいえ、北海道にこだわった報告になる予定だ。

 19日は仕事を終えて、まっすぐ新千歳空港に向かった。20:30発の全日空機に乗るためだ。
 どうして20日朝イチで行くスケジュールにしなかったかというと、早起きするのが面倒だったのと、いくら早い便に乗っても、9時に上野に着くのが難しそうだったからである。
 とにかく、せっかく行くのだから、一つでもたくさん見るのが至上目的だった。また、この秋の東京は、2日間フルに使っても、見切れないほどの美術展ラッシュなのだ。
 そのため、大井町のホテルに着いてから、何時にどの美術館に行き、どの電車に乗って−という、綿密な日程の計画をたてた。もっとも、必ずしもその通りには行かなかったが…。
 いちばんもくろみがはずれたのは、公募展がおもいのほか見るのに時間がかかった一方、「日本の現代写真」などはあっさり見終わったこと。
 また、横浜トリエンナーレで、ビデオアートの鑑賞が予想よりはるかに長い時間を費やすものであることが分かり、その後に行く予定だった「エゴフーガル イスタンブールビエンナーレ」は断念した。これは結果的に、よかったと思う。横浜トリエンナーレの会場を出た時点でほとんど体力を使い切っていたから。「イスタンブール…」の会場でぐずぐずしていたら、新千歳行きの最終便に乗り遅れていたに違いない。
 なお「イスタンブール・トリエンナーレ」とは、その名の通りトルコで行われている美術展であるが、今回のディレクターが日本人の長谷川祐子であるなどの事情も手伝っているのか、出品60人作家のうち映像を中心に13組の作品を選んで初台駅前の東京オペラシティ・アートギャラリーで12月24日まで行われている展覧会のこと。札幌に帰ってきてから美術サイトのArtscapeなんかの評を読むと、横浜トリエンナーレよりこっちの映像作品の方が見ごたえがあったなんて書いてあって、ちょっとガッカリしたけど。

 20日は、上野の東京都美術館からスタート。
 なぜなら、ここは午前9時から開いているからだ。少しでも時間は有効に使いたい。
 上野公園はいつ行っても、一種独特の雰囲気がある。通路と、緑地帯とが、截然と分かれているのが、道外の公園らしいが、緑地帯のほうが、浮浪者(ホームレス)の人々にほとんど占領されているからである。
 彼ら、あるいは彼女らは、青いビニールシートなどでこしらえた簡便なテントを張って、生活している。美術館の前まで来ると、垢じみたにおいが漂ってくる。
 上野公園には、東京都美術館以外にも、パンダで有名な動物園や、国立西洋美術館などの文化施設がいっぱいあるだけに、優雅な文化と貧困の現状との対照が際立ち、なんだかいたたまれなくなるのである。
 さて、都美術館の前に着くと、いきなり何者かに後頭部をがつんとやられた。驚いて振り向くと、カラスである。ほかの通行人も襲っている。上野の山は昔から、東京における一大カラスのねぐらであるらしい。

 紀展。絵画と彫刻の2部門。
 絵画は、圧倒的に具象画が多い。しかも、シュルレアリスム系、フォーブ系があまりなく、一水会ふう、あるいは官展アカデミズム的な風景画なども見当たらない、となれば、いきおい人物や風景などのモティーフをどういうタッチで描き、どのように組み合わせるかが焦点となってくると思う。そうやって見てくると、おもしろく感じられたのは、独自の視点で風景を再構成した作品だった。
 たとえば、北原悌二郎「観音土居」。水田地帯をやや俯瞰ぎみに、点描に似たタッチで描いている。ただ、となりあう点は同じ色なので、いわゆる点描の効果は挙げていないが、素朴な雰囲気を出すことに成功している。中ほどには、数体のお地蔵さんがあり、遠景には水田と、大きな頭首工や排水設備がある。旧来のものと、近代のものとが、風刺を込めて同じ画面に描かれている。
 あるいは、二紀ではスター的存在の遠藤彰子「参=壱」。例によって500号の大作だ。迷宮のような都市に大勢の人々が描かれる不思議な光景はいつもながら。ただ、今回は、画面左端と右上に、「ジャックとマメの木」にでも出てきそうな大きな蔓と、それにしがみつく人々がかき込まれ、左右の蔓の先端にいる人間どうしが中央で手を伸ばしており、この斜めの動きが画面にダイナミズムをうんでいる。
 宮田翁輔「呼応する丘」は、近景を思い切って空けるとともに、粘り強いマチエールが、スケールの大きさを感じさせるし、秋山泉「樹間」は、平面的な空間処理がやまと絵を想起させる。
 これに比べると、人物や群像をモティーフにした作品は、作家は作家なりに構図などをくふうしているのかもしれないが、どうも対象の持つエキゾチズムに寄りかかっているようなのが多いように思えて、あまり感心しなかった。       

 内には、絵画部の委員はいないが、会員はふたりいる。大友一夫(日高管内平取町)「現代B」が、写真を使ったコラージュで新鮮だ。伊藤光悦(札幌)「Airport」は、7、8月の「北海道二紀」展に出品された作品。
 ほかに、会員で印象に残った作品を挙げておく。
 こぶが火山になった不思議で巨大なラクダと異国の風景を組み合わせた生駒泰充「水の扉」、鉄錆色のゲル(?)を中央に据えてあえて空間の広がりを抑えることでむしろ広大さを漂わせる小柳吉次「陽だまりの時(モンゴル)」、手前に斜めに配された枝が力強い高嶋脩二「バイネより木魂」、廃墟のビルを斜めからの視線で重量感と幻想性豊かに描いた橋本俊雄「風の島(A)」、オレンジを主体に都市の風景を描いた水上敬司「残光」など。
 気品ある、スーパーリアルな裸婦で知られる黄憲が40代の若さで亡くなっていたのには驚いた。

 紀は、道内の公募展よりもひとつ階段が多く、委員、会員の下に「同人」がある(その下は、一般入選)。
 若手の注目株とされる諏訪敦仏山輝美もこのクラス。あるいは、いちばん活気と冒険心に富んだクラスだともいえるかもしれない。ただ、筆者はことしは、この二人の作品をそれほどすごいとは思わなかった。
 重村幹夫「変容-クロイツェルソナタ」が、ストロークで山とも神殿ともつかぬ異様な光景というか、を現出させていて、「見たことのない風景」目を引いた。また、スーパーリアルな女性像ということなら、一般入選クラスに塩谷亮という腕ききがいる。
 一方、芝野純子「刻・2001(U)」は、花を手にした天使を描いているが、なんだか吉野朔実の漫画みたいだなあ。
 風景や動物などさまざまなモティーフが画面にあふれ、「読む」楽しみが絵にあるのが、木村樹美、谷山育、平井章三ら。
 ほかに、人物と風景の大きさの比を狂わせた松本邦夫、ドーナツ型のキャンバスを用いた加藤修、ドットのごく粗いCGのような手法で風景を解釈しなおした大東純子、街景を抽象になる寸前まで解体した鬼澤和義、疎林、ドラム缶、舟、人物、犬といったモティーフがふしぎと郷愁を漂わせる佐久間公憲、真上から街並みをとらえてモノクロで処理した大橋圭介、パリのように日本の都市を描こうともがく桑畑佳主巳、俯瞰気味にありそうでない村落風景を描いた松本善道らが印象に残った。また、角昭三、川嶋のぶ子、河津理代、玉尾慶子らの名も挙げておく。
 道内の会員には、大島忠昭、大嶋美樹絵、中丸茂平がいる。
 また、浦隆一、廣岡紀子が同人に推挙された。おめでとうございます。また、長内さゆみは、新人室に展示されていた。水面に浮かぶ枯れ葉がきわめてリアルな筆致で描かれている。
 一般入選クラスは駆け足で。マンガのようなタッチがユニークなたかはしびわ、たいまつを手にした子供を描きユーモラスかつ不気味な西平耕治、昆虫を巨大に描いた松永拓己、大量の木材がばら撒かれた街という不思議な光景を描く浦田大樹、大胆なストロークが風景のような斉藤健、室内にビルと球があるなぞめいた光景を描いた小西勝、馬と古い町の組み合わせがメルヘン調の渡邊善人、地上に2基の巨大な気球が建設されている風景を描く水野尚、なんでもない裸婦なのになぜか存在感がある袖山明子などなど、多彩だ。
 また道内は、齊藤博之、蒼騎展から転じた藤井忠行、澤田範明、奈良昌美、松井多恵子らが入選していた。

 ーん。ピッチを上げないと、いつまでたっても横浜トリエンナーレにたどりつかないな、これは。
 彫刻に移る。
 こちらは、抽象、具象いりまじり、なかなかの力作ぞろいで楽しめた。
 なかでも、遠藤幹彦「夕月」。三日月に着衣の女性が腰掛けているという作品。通俗的な甘さが感じられるという人もあるだろうが、筆者はこういうの、大好きなのです。構図も決まりすぎるくらい決まってるし。悪いか!
 委員では、日野宏紀「蘇」が清楚な裸婦像。札幌の永野光一「眼の時」はいつもの作風ですが、中央の針金の束に柔らか味が出てきたのではないか。日原公大もあいかわらずユニーク。
 会員では、藤木康成「地の音」。たぶん家族なのだろうが、うまく4人をまとめている。
 同人。飯村直久「森とおよぐ日」は、宮崎アニメ「風の谷のナウシカ」に登場する王蟲(おうむ)を思わせてユニーク。上月佳代「オレンジグレー」は、人物の一部が背後の平面にのめりこんでいるのが異様である。「夏の日」など2点出品となった丸山幸一は、軽やかさにあふれている。
 なお、札幌の神谷ふじ子が、鉄板と七宝を効果的に用いた「廻」で同人推挙となった。その他、綱川俊弘、花田千絵など、木彫にパワフルな作品が目立った。ほかにも一般入選クラスには、そうめんを束にしたような森藤悟史など、とにかくいい意味で破格な作品が多い。ガラスの作品に新鮮さを感じたことにもふれておく。

 っと、自由美術だ。
 自由美術は、会員と一般の2段階しかなく、しかもキャプションにその別を記さないのが伝統である。
 華やかな二紀の会場から自由美術の会場にうつると、なんだかすごく地味な印象を受ける。
 これは、フォルムのはっきりしない抽象画が多いことと、公募展のなかでは作品サイズが相当小さめであることが理由だと思われる。
 道内では、たとえば佐々木美枝子の作品はあまりほかに似ている人がいないけれど、この会場に来ると同じ傾向と大きさの作品であふれているのだ。
 正直なところ、それらの抽象画の大半は、筆者にはあまり関心がもてなかった。
 ただ、札幌の佐藤泰子が、明るいオレンジ色をいっぱいに用い、抽象画の中でもひときわ目立っていたのはうれしい。
 また、札幌の川森巧が、不気味な宇宙生物のようなものをかいて、印象に残った。
 ほかに、道内では、会員の比志恵司、高橋靖子、森山誠、一般の黒田孝、大崎和男らが一定の存在感を示している。
 このほか、渡島管内七飯町に清野満敏という会員がいるそうだが、どんな絵をかいているのか、わからなかった。室蘭の佐々木俊二は今回出品していないようだ。
 その他入選者は、木村スガ子、北島裕子、工藤牧子、後藤哲、佐藤栄美子、鈴木豊、中間弥生、深谷栄樹、吉川孝、杉吉篤
 自由美術の絵画部は、図録も販売されていない。寂しさが募る。

 刻も、野外がなくて寂しい感じがする。
 道内木彫のベテラン、米坂ヒデノリも、小品を出している。
 そんな中で、帯広の岡沼淳一が、木を組み合わせた抽象の力作。会場ぜんたいを睥睨しているような大きさで、ひときわ目を引いた。

 独立美術である。
 結論から先に書くと、2日間で見た中で、いちばん身近に感じたのが独立だった。
 現代美術ばかりがジャーナリズムをにぎわし、公募展は位階制度を非難されてはなはだ影が薄いのだが、どうしてどうして、へたな現代美術よりも、現代の人や社会の只中で絵筆を執っているという感じのする作品がとても多かった。いわゆる「名画」よりも、現代的な感じがするのはもちろんだ。
 公募展の欠点は、ゆっくり鑑賞するには作品数が多すぎることだが、そのうち、どこでじっくり足をとめて、どこをさっと流せばいいのかだんだん分かってくる。食わず嫌いの人がいたら、もったいない。公募展に足を向けることを勧めます。

 紀が風景なら、独立の面白さは人物にあると思う。
 官展アカデミズムとも、西洋のアカデミズムとも、フォトリアリズムとも違う、独自のリアリズムで人物を描き、その上でさまざまなモティーフを構成していくというスタイルの作品が、かなりの割合を占める。
 その一方で、発足当時を引き継いだようなフォーブの作品や、抽象などもあり、見ていて飽きない。
 以前も引用したことがあるけれど、ある美術評論家が独立美術を「画壇一の腕力集団」と評していたのは、当たっていると思う。
 ただ、近年多くなっているのが、レリーフのようにキャンバスを変形させたり板を張ったりしている、半立体の作品で、しかも、そういうタイプの作品が賞を受けることが増えているようだ。
 たとえば今回見事独立賞に輝いた大地康雄や、賞候補になった高橋要の作品は、道内では珍しいけれど、独立では、少数派とはいえ、数はかなりあるのだ。
 大地と独立賞を分け合った田口貴大なんて、石膏彫刻(トルソ)をキャンバスに埋めこんでいる。かなりエロティックな作品だ。伊東茂広は、黒い画面に電球が埋め込んである。
 まさか、いまさら、キャンバスに穴を空けたりすることが「前衛」的だと考えている人はいないだろうけれど、でも、受賞作すべてが、変形させる必然性があるとは思えないんだよなあ。半立体に賞が偏るのは、どうかと思う。

 こで特筆しておかなくてはならないのは、米国の同時テロが美術の世界にも深い影響を及ぼしていることだ。
 絹谷幸二
「炎々明王夢譚」。巻き上がる炎の中で、怖い形相をする仏。手前ではテレビや戦車が燃え、遠くに、世界貿易センターに突入する飛行機が描かれている。
 大津英敏「ニューヨークの不安」は、海から遠くニューヨークを望み、青空に少女が横たわっている。(図録に「ニューヨークの平安」とあるのは誤植でしょう)この絵では、まだ「9・11」以前らしく、貿易センタービルも見えるのだが、作家がこめた思いは伝わってくる。
 さらに、原田丕「untitled 01.9.11」は、人物スナップを影の中に4枚並べた構成で、亡くなった人を暗示している。 

 間像、ということを、先に書いたけれど、ベテラン会員による人物像には、見ごたえがあった。
 単にうまくかくのではなく、その底に、人間への思いがあるのだ。たとえば、福島瑞穂馬越陽子には、激しい筆致のなかにも、皮肉や愛がこめられているのだと思う。
 高森明の、一見グロテスクな裸婦像も、人間とは何かを、画家なりに追求した結果なのではないか。
 中嶋明の、家族のいる風景は、なんともいえぬ静けさをたたえている。
 筆者は、そのことを文学的だなどといって排斥はしたくない。
 入選者でも、女性の内面に迫る山中俊明、同じ顔をした裸の妊婦と着衣の人物を描いた武藤伸子、勢いのある筆で躍動する人物をシンプルに描いた西又浩二、波の前でうずくまる女性がモティーフの宮腰敏一、大量のしゃれこうべの上に横たわる女性の目の部分を無造作に塗りつぶした松井通央、若い男女の苦悩を描く山本雄三、こいのぼりの上にまたがって遊ぶ子らを漫画風に描いた河合規仁らがいる。

 岡羊子「花火となって逝った夏」。明るい赤や紫が、全面に飛び散って、ますます切ない。
 昨年亡くなった夫の和田男さんへのレクイエムなのだろう。彼女のアトリエは、札幌の豊平川からほど近いマンションの最上階にあり、そこからは河川敷で行われる花火大会がよく見えるのだった。
 そういう事情を知らなくても、赤や紫は、まばゆければまばゆいほど、もの悲しい。花火の上がる跡を表す垂直線が、画面全体を引き締めている。
 道内関連では、栃内忠男、輪島進一(8月の個展はこちら)のほか、高橋伸という会員が千歳にいるのを初めて知った。「原野のピエタ」は、裸婦がイエスの石膏像を抱きかかえて立っている図柄で、背景には、細い木が2本立ち、穴ぼこだらけの荒野から2カ所、黒煙が赤い空にたち上っている。あるいはこれも「新しい戦争」を暗示しているのかもしれない。
 留萌管内羽幌町で生まれ、網走管内で育った松樹路人の「去りゆく夏に『静かなる対話』」には、感慨を抱いた。作者と妻とおぼしき男女が、遠くに山を望むテラスで向かい合って座っているのだが、全編に満ちたりた空気が漂っているのに加え、「松樹さんも年をとったなあ」と、妙な感慨を抱いてしまった。

 内は、入選者が多い。たぶん、全国規模の公募展でいちばん多く道内在住者がいるだろう。
 木村富秋が奨励賞となり、新人室に渡辺貞之砂田陽子が展示されている。
 ただし、今年の全道展に出した作品をそのまま出品している人がけっこういて、筆者には面白くなかった。まったく同じ作品でなくても、同工異曲だったりする。
 画風に変化が見られたのは、梅津薫坂井伸一くらいか。後者は、ますます人間の顔の崩壊が進んでいるようだ。

 かに忘れがたい作家として、廃墟のビルに飛行船が突っ込んだ黙示的な風景をモノクロームで描く早矢仕素子、樹木のある不思議な光景を描く大泉佳広、一人ずつ箱に入った現代人を寓意的に描く佃彰一郎らの名を挙げておきたい。
 それにしても、 全国的な絵画コンクールで賞をとったような吉本進一とか浅井清貴とか福田高治が会員じゃないんだから、独立は侮れない。ホント。

 あ、今度こそピッチを上げないと、終わらないぞー(~_~;)
 創画展は、日本画3大公募展―なんて書き方をするとむっとする方もいらっしゃるかもしれませんが、院展、日展、創画が戦後の日本画壇で圧倒的な力を持っているのは事実なのでしょうがない―の中ではもっとも革新的とされている。
 今回筆者は初めて見たけれど、なるほど「洋画的」なテイストを持つ作品が多かった。
 しかし、一番印象的だったのは、8室に、この1年間になくなった上村松篁、秋野不矩、渡辺学の作品が展示されていたことだった。たしかに、同じ部屋に、稗田一穂、加山又造といった巨匠は健在とはいえ、やはり創画の失ったものの大きさに思いをはせざるを得ない。
 先人たちが切り開いてきた道を継承し、「新しい日本画」を探していくのは、より困難になるのではないかーという気が、漠然とした。
 一つには、内田あぐりのような抽象表現主義にも似た作風という道があるだろう。今井雅弘岸真由美、渡辺隆らのように、空気感をも表現しようとした、より静謐な表現もある。
 また、藤田光明のように、穴の空いた道路やバードカービングといった道具を組み合わせて、道の風景を現出させるという手もあるだろう。関林宏祐、浅野均らも「風景の再構成」組だ。あるいは、田内公望、田村直子、奥村美佳のように、写実的な風景を描いているようにみえながら、作者なりの再構成を経て、ノスタルジアをかもしだしている作品もある。

 景の再構成ということでは、釧路在住の羽生輝「海霧(ホワイト)」が、まさに想像の中にしかないにもかかわらずリアルな北海道の漁村風景。
 また、寓意的な「バベルの塔」シリーズをかき続ける札幌の平向功一。いままでひしめいていたゴリラやキリンなどの動物の姿が、歯車などを組み合わせた不思議な塔から消え、今後の急展開を予測させる。
 道内在住というとこの2人くらいしか気づかなかった。出身者はかなりいるようだが…

 じていうと、いろんな人の作品が見られる公募展は見ごたえがあった。今度はもう少し時間をとるようにします。

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