わたしの「小樽論」
(感傷的なテキスト)
花園十字街近くの国道沿いにある、通路までびっしり本に埋まった古書店を出ると、激しい雨が降っていた。
小樽市立文学館に「小樽論」と題された展覧会を見に行くのだ。
「小樽論」が始まるとき、学芸員の方から「あなたにとって小樽とは」という風景を挙げてほしい―と質問を受けていた。
なんといって答えていいか分からず、悪いとは思ったけど、そのままにしておいた。
1980年代前半のことだったと思う。
何を思ったのか、南小樽駅からひたすら小樽の街を歩いてみたことがある。
わたしの住む札幌は、今でこそ新札幌や琴似などの副都心が発達しているけれど、長いこと「繁華街中央集権」の街だった。駅前通や南1条通には大きなデパートが並んでいるが、ちょっと離れるとぜんぜんにぎわっていないのだ。
人口規模からみると、小樽の商業集積は、わたしにとっては驚異的に感じられた。
どの道を歩いたのか、正確には覚えていないのだが、花園の商店街を過ぎ、ブックス左文字、都通り…と、ずんずん歩いてもまだ商店や飲食店が途切れない。市場を超えても、まだ飲食店がぽつぽつ続いている。
大きな道路を渡った記憶がないから、まだ臨港線は整備されていない時代だったのだろう。しかし、道は石山町の山に突き当たってしまった。
わたしは地図を持っていなかった。小樽駅からかなり離れてしまっていることだけが、分かっていた。すこし運河沿いに歩く先を変えれば手宮のバスターミナルへ通じる道路に出て、さらに手宮、豊川町と商店は続くのだが、もちろんそんなことは分からなかった。
夜だ。そろそろ戻らなくては。でも、色内か石山町の、低い軒の料理屋から、哀愁を帯びた三弦の音が漏れてきたことを憶えている。
いまにして思えば、三弦のくだりは、どうも何かの記憶違い(たとえば川嶋康雄さんの本を読んで頭のなかに浮かべたイメージが後から混入した、とか)のような気がするのだが、確かめるすべがない。
ただ、「運河戦争前夜」の、観光化が始まる直前の小樽には、歴史の流れから取り残されたような三味線の音がふさわしいようにも思えるのだ。
答えを返さなかったのは、じぶんにとっての小樽の風景が、現実のものか夢のようなものか、はっきりしなかったためである。
もちろん、それ以外にも懐かしい風景はある。
もっとちゃんと思い出せばよかったのだ。
水天宮のあたりは、観光客相手の店が並ぶ色内通の坂の上にあって、閑静な一帯である(高層住宅が目につきだしたのが残念だが)。
夜、外人坂を下ると、木造家屋が石段の両側に並び、実に郷愁を誘う。ふと見上げると、夜の闇にぽつんと、孤灯が点っている。
このへんの家を借りて住みたいナー、と本気で思ったくらいだった。
もうひとつは、函館線の車窓風景である。
小樽から乗った汽車(電車ではない!)が、次の塩谷駅を出ると車窓に日本海がぱあ―っと広がる。その入江の形が、ほんとうに美しいのだ。
伊藤整がjumping up して遊んだ斜面はここだったのかなあ―と感慨にひたってしまう。
わたしは、傘をさして、人影もまばらな色内の飲食店街を歩いていった。
小樽はわたしの母の生まれ故郷である。幼い頃から何度も行っているし、昔の運河附近などもかすかに覚えている。藪半が駅前にあった時代も知っている。だからそこらの札幌人よりはよほど小樽のことを知っているつもりだったが、この色内の飲食店街には、いささかショックを受けた。小樽に、これほどの飲み屋街があるとはまったく知らなかったのだ。
しかも、バーやスナックや料理屋は、ほとんどが2,3階だて。ススキノや三・六街(旭川)や山下町界隈(北見)の飲食店の大半がビルに入っているのとは様相が異なる。
釧路も背の低い飲み屋の建物が多いが、道路がもっと広くて全体的に間延びした感じだ(室蘭、函館はまだよく知りません)。もちろん苫小牧や留萌、網走はこれほどの規模ではない。
小樽の奥は深い。あらためて思った。
以上は長すぎる前置きであるが、「小樽論」については、客観的な語りよりも、見る人それぞれの「小樽」像があらためて明らかになることがむしろ必要とされているようだから、これ以上あんまり詳述しても仕方ないような気もする。
1000枚並べた写真は、機械的に数百メートルおきに撮影箇所を選んで、あえて情感を排して撮ったものである。だから、住宅地の写真が多い。観光客が無意識のうちに視野からはずしているであろう量販店やパチンコ屋などもちゃんと収まっている。それにしても、人が「小樽」と聞いて思い出す風景を、わざわざ意図して排除したかのようにすら感じる無機質さだ。
もちろん、手宮3−2−6のように、昔懐かしい木造家屋が写っている写真がないわけではないし、長橋を対象にした写真は雪解けのころのものが多くて、春を待つころの気持ちを思い出させる。しかし、観覧車が写っているにもかかわらず、撮影地を「マイカル小樽」とせず「小樽港木皮焼却炉」としているあたり、「観光的小樽」を排するあまり逆のバイアスがかかっているのではないかとさえ思ってしまうのだ。もちろん考えすぎなんだろうけど。
だって、たとえば池田製菓や旧手宮線跡から、入船十字街のバス停を降りたら目の前にある細い土の道にいたるまで、小樽の街は懐かしい風景に満ち満ちているじゃないか、とわたしは思う。じっさい、「幽鬼の街」マップに附された現代の小樽の写真は懐かしいじゃないか。若竹町やオタモイに並んでいる家々の青や赤のトタン屋根だって札幌には少なくなってしまっているじゃないか。これは感傷だろうか。感傷はいけないだろうか。現実の小樽ではないから、そしてその感傷が小樽に住む少なからぬ人々をいらだたせるからだろうか。滅び去った古きよき札幌のイメージを押し付けられては迷惑だからか。
ひとは、かならずいつも現実から出発できるとは限らない。時には逃げ込む場が必要だし、記憶を偽造だってするだろう。それを生きる力にして、現実の中を泳ぎきっていくだろう。まだ小樽がある。そのことはわたしの心を勇気付ける。それもよくないことだろうか。
会場には、来場者へのアンケートが張り出されていて、各人がめいめいの「小樽論」を展開していた。
意外だったのは、小林多喜二への言及が多かったのに比べ、伊藤整などほかの文学者の名前があまり見当たらなかったことだった。
バスに乗って札幌に戻ると、やたらと高層住宅が目に入る。中野重治言うところの「空面積」が狭いのだ。わたしは、ふるさとだから札幌が好きだけれど、やはり小樽から帰ってくるとその平板な膨張ぶりに正直やりきれない気分になるのである。
(2001年9月9日)