林 亨展 あるいは美術作品とテキスト ギャラリーミヤシタ |
札幌では昨年春に続く個展。今回も正方形の平面を、インスタレーションふうに壁や床に散らしている。今回も、支持体は和紙。墨、エナメル絵の具、アクリル絵の具などを縦横に使い、深みのある画面をつくっている。
前回と異なる点としてすぐに気づく点が三つある。
ひとつは、四辺のうち二辺を鮮やかな蛍光色で縁取り(しかもその幅は二つの片で微妙に違う)、平面全体に散らした細い線やしぶきをそれと同じ色にしたこと。作品によって蛍光色はオレンジだったり黄緑だったりするが、きりっと平面を引き締める役割と、同時に画面を揺らがせる役割とを持っている。
第2点は、以前は書道ふうの文字が書かれており、東洋の美術であることを強調する作用を果たしていたが、それが消えたこと。
第3点は、壁に掛けられた作品の後ろに金属の板が付けられ、額縁に似たような働きをしていることである。
この点について林さんは、全体がインスタレーションになってもいいんだけれど「1点1点が作品であってほしいという気持ちもあって…。ぼくは欲張りなんですよ」と笑う。
絵画のイリュージョン性が指摘されて久しい。ようするに、モーリス・ドニが言ったように
「絵画とは、戦争の馬や、裸婦や、なんらかの逸話である前に、本質的に、ある一定の秩序のもとに組み合わされた色彩によって覆われた平坦な色面である」
のだ。
そんなことを言ってどうする、という人もいるでしょうが、現代の絵画とは
「しょせん、奥行きのある画面を作ろうとして遠くのものを小さく描いたりしても、それはウソなんだよ」
という断念の向こう側にしかありえないのだ。
林さんの絵は、ある種、そういう平面性の自覚を持った上で、なおかつ、奥行き感を出すにはどうしたらいいかという問題意識をはらんでいると思う。
それは相当けわしい道である。
二人で話していたとき、フランク・ステラの名前が出たけれど、厳格な抽象表現主義から半立体の作品を経てほんとうの立体に行き着いてしまった彼の足跡を振り返ると、平面であり続けることの難しさを感じる。
まあ、筆者は、絵がイリュージョンであってもいいんじゃないかと思うんですよね。それを暴くことが主眼の絵はそろそろ飽きてきた。
さて、波型の板に描かれた小品が3点ほどあった(ふるいアパートの階段の屋根なんかに使われていたアレです)。どうやら林さんは、この形の作品にシフトしていくらしい。平面でありながら平面にとどまらないもの。その探求の果てに、全く新しい絵画は生まれるだろうか…。
で、最後にちょっと書いておきたいことがある。
平面でありながら不思議な奥行き感を持った作品として、今週、フォトグラファーの山岸誠二さんがthis
is galleryで発表した、印画紙を用いた平面があった。ただ、山岸さんは林さんと違って、イリュージョンがどうのこうのということは、たぶんあまり考えていないと思う。
山岸さんをここで引き合いに出すのも変かもしれないけれど、彼はたくさん美術の実作を見て、無意識のうちに作品の作り方を会得したんじゃないかな。それほど意識的でなくても、良い作品ができることもある。
もちろん、出来上がった作品がすべてだと筆者は思うから、べつに平面がどうたらこうたら考えていなくたって、良い作品ができればそれでいいのだ。
ただ、現実の社会では、付随するテキストが、作品の評価を左右するというケースは、けっこう多いんじゃないかと思う。言い換えれば、現代美術とは、作品だけで自立できなくなっているのだ。
美術は自由であるべきだから、テキストの力を借りること自体はどうしても排斥しなくてはならないというわけじゃない。ただし、テキストとか文脈なしでは全く楽しめない作品というのは、筆者は疑問ですね。まあ、人それぞれですけど。
誤解がないように書いておきますが、林さんの作品が、そういう種類の楽しくない作品だと言っているのではもちろんありません。
(2000年12月24日記す)26日一部改稿