20世紀の文化とは
大げさな題名をつけてしまいましたが、最近考えていることを書こうと思います。
20世紀の文化・芸術の大きな流れをひとことでいうと
「白が黒をソフィストケートした」
ということに尽きるのではないかと思います。つまり、西洋が外部を翻案して取り入れつつ活性化していったということです。
その反対に、西洋の中だけでやっている芸術は、ほとんどがマンネリ化しています。
19世紀まで偉大な創作力を示してきた西洋音楽は、それが「クラシック」という枠の中でとらえる限り、20世紀前半のストラビンスキーあたりで行き詰まってしまいました。実をいうと、19世紀後半からチャイコフスキーやムソルグスキーらは西洋の「外部」の要素を取り入れて、西洋音楽の拡張を図っており、20世紀に入ってからも有名なガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」などはジャズを導入してさらに音楽の幅を広げようとしたわけですが、どういうわけか「クラシック」はその路線をとり続けていきはしませんでした。1920年代あたりを境として音楽の創造性の大半はポピュラー音楽の世界で展開されています。いささか商業音楽優先の見方になるかもしれませんが、50年代から60年代にかけてマイルス・デイビスやジョン・コルトレーンら多くの巨人の活躍で絶頂を迎えたモダンジャズ、そして60年代にまずビートルズが道を開き67年ころから一気に多様化して20世紀最後の3分の2に素晴らしい広がりを見せたロック、さらにソウル/ブラック・コンテンポラリーやハウスなど、この分野ではほとんどが、黒人音楽をソフィストケートしているのが特徴といえます。
反対に、クラシック音楽は、もちろん地道で、前衛的な創作活動も続けられているのはもちろんなのですが、少なくても演奏会の回数などから判断する限りでは、過去のマスターピースを何度も再現してその微細な差異をあれこれ印象批評するという、まことに変化に乏しく「非現代的」な事態が繰り返されています。こんなことを書くとクラシック音楽のファンは怒るでしょうし、筆者も別にモーツァルトやシューマンの音楽自体を嫌っているのでは全くないのですが、例えば美術の分野でセザンヌやアングルの模写を競い合う習慣がなく、文学の分野で源氏物語やホメロスの翻案が断じて主流になっていないということに思いをいたせば、かくも創造性の枯渇した分野がいまなお音楽の本流であるかのような顔をしているのは、まことに奇妙なことと言わざるを得ません(筆者がもっとも腹立たしいのはクラシックのファンに、自分たちが少数派でしかないという自覚に乏しい場合が多いことなのです)。同様のことはクラシックバレエといわれる分野にもいえます。いまも「白鳥の湖」などがメーンの演目になるバレエと、絶え間なく変化してきたモダンダンスや舞踏とを比べると、どちらがモダンであるかは論をまたないでしょう。
さて、クラシック音楽と並ぶもうひとつの芸術のアカデミズムの牙城だった美術はどうだったでしょうか(こういう論の立て方はおかしいと思われるかもしれませんが、少なくてもわが国においては、官学たる東京芸大の学科二つが明治時代から変わっていませんからね)。よく20世紀美術の劈頭を飾ると位置づけられるピカソの「アヴィニョンの娘たち」が黒人美術の影響なしに存在しえないということからも分かるように、そしてそれに先立つ19世紀後半の西洋美術が日本美術の影響下にあったことも含めて、西洋の外部からさまざまな力と形式をもらって、新しい分野を切り開いてきたわけです。20世紀美術の大きなターニングポイントといえるキュビスムのほかにも、ダダイズムの発祥にあたって黒人の彫刻や詩などが大きな霊感を与えていることは見逃せません(塚原史さんの研究に詳しい)。ダダとは、第一次世界大戦の終了とともにシュルレアリスムに移行した芸術運動という枠にとどまるものではなく、その「すべてを破壊せよ」という精神のあり方自体が、それ以降のモダニズムに決定的な影響を与えていることは忘れてはならないでしょう。そして、ダダイズムが準備したシュルレアリスムが、美術のみならず、ジョイスなど現代の文学にもひとつの奔流となって流れ込んでいることを考えると、20世紀の芸術が黒人文化抜きで成り立ちえないことは明らかといえましょう。
ただし、映画は必ずしも黒人文化とそれほど深いつながりがあるとはいえません。映画は他の分野にもまして大きな産業であるだけに、米国の支配力が圧倒的になる一方のまま世紀末を迎えたと言えるような気がします。むろん、作品それ自体は世界中で製作され、例えばイランや台湾やイタリアなどで作られて世界的に流通しているわけですが。また、私は演劇についてはまったく暗いので、ここで云々することは差し控えたいと思います。演劇は、言語の問題もさることながら、舞台セットを一式世界各地に運搬するということの技術的困難さがどうしても付きまとい、他の分野に比べるとお国柄、ローカル性が強くなりがちだと私には感じられるのですが、いかがでしょうか。ただ、こと日本に関して言えば、現代社会の問題にもっともストレートに切り込んでいるのが演劇人であることは特記しておくべきでしょう。
ここで日本に目を向けていえば、経済ほどには、日本の文化は、世界に影響力をもつにいたらなかった世紀であるといえます。もっとも、グローバルだから良いものであって、ドメスティック(国内向け)だからダメだという短絡な議論の立て方は、筆者のするところではありません。例えば松任谷由実やドリームズ・カム・トゥルーの音楽は西洋の強い影響下で作られていますが、実はドメスティックなものであり、言い換えれば欧米で人気の出るタイプの音楽ではないのですが、そのことが彼女たちの音楽の価値を貶めるものでないことはここで強調しておきたい。日本でしか評価されないからと言ってイコール悪いことだとはいえないと思います。どんな表現でも、それぞれの国民性や嗜好といったものが、受信側にも発信側にもまとわりつくのは避けられないからです(逆に、あまり各国の固有の文化が問題にされない、わりと技術至上主義的な性格の強い分野、例えばヘヴィメタルやフリージャズでは、けっこう日本人が活躍しやすいのです)。
ここ20年間の日本発の文化で、世界的に認められたものとして筆者の念頭に浮かぶのは、川久保玲のファッションであり、ポケットモンスターや宮崎駿などのアニメであって、ことハイカルチャーとしての美術では、残念ながら存在感を示してきたとはいえません。これは、欧米にも責任があるのはもちろんで、彼(女)らの目にはバイアスがかかっており、純日本的でない日本人の表現にはどうしても点数が辛くなってしまうのです。つまり、日本人なのに日本固有の文化に立脚しない表現に対して、あまり肯定的な評価を与えていないことがままあるのではないでしょうか。哲学から美術まであれほど輸出しておいて何をいまさら、かなりの程度まで生活様式の西洋化を果たしてしまった日本人にとっては理不尽な判断であることは確かなのですが、ふとわが身を振り返って、例えばインドネシアやケニアのアーティストが「土俗的」でない、西洋人の真似事的な表現をした場合、どういう評価を下すかを考えてみれば、西洋人の日本人に対するエキゾティックな視線と同じような視線を、私たちが他の第三世界の人々に浴びせてはいないだろうかということは、少し反省してみる必要があるかもしれません。はっきり言えば、どんな過去にさかのぼったところで、他の文化の影響を受けていない文化というのは、ありえないのです。しかし、日本が、西洋からの移入に汲々として、オリジナリティを閑却した結果だという、よく指摘されることも、否定はできないのではないかと思われます。筆者は直接知らないのですが、パリの流行の輸入が画壇の流行になったというような挿話はよく聞くところです。
話がそれましたが、ここで私たち北海道の美術関係者が考えてもいいことは、北海道というのは、世界の中で、二重に屈折した(あるいは、ねじれた)場所であるということです。そもそも日本が、非西洋でありながらひたすら西洋に追いつこうとして、その結果、西洋でも東洋でもないへんてこな(よく言えば他に例を見ない)国を作り出してしまったのですが、その中でも北海道の文化は、日本古来の伝統からかなり切れた位置にたっているのです。
もっと言えば、本州人は北海道の風景に対して、日本と言うより西洋的なものを見ているのですが、そういうロマン主義的な見方を、北海道人も強いられているとはいえないでしょうか。本当に、北海道の風景は、本州人が見るような風景なのでしょうか。私たちは私たちなりの、風景の見方を作り上げていかなくてはならないのではないでしょうか。少なくても、安直に日本の「伝統」に回帰する道は、私たちの前には残されていません。戦後の土建政治によって完膚なきまでに破壊された日本の風景に目をつぶり「伝統」を語ることくらい醜いことはないように思いますが。といって、本州人のロマン主義に乗っかることはまさに植民地主義をなぞるだけのことでありますし、開拓の苦闘とか大自然というものも、私たちの世代にとってはすでに出来上がった物語でしかないのです。私たちの表現の視座が問われているのだと思います。もちろん、これからはますます風土やナショナリティにこだわらない思考が普遍化していくことが予想されますが、それならなおさら、その表現者個人が問われることになりそうです。
さて、最後に、今後もモダニズムが問われていくとすれば、そこには二つの危機が内在していることを指摘しておかなくてはならないでしょう。近代はすでにその萌芽において近代批判と「外部」の導入による果てしない拡張という性格を有していましたが、アジアとアフリカが「発見」されて多くの霊感を与えてくれる「外部」がもはやなくなってしまったのです。モダニズムは、今あるカードの組換えで勝負をしなくてはいけません。カードの種類自体はこれ以上増えなさそうなのです。
もうひとつは、作品の数が増えすぎて、ほとんどの人に「この作品が新しいか」どうか判断できなくなる日々が来るのではないかということです。冗談みたいな話ですが、以前ある現代美術のコンテストにテキストを付してきた人がいました。彼にとってはそれが新しい試みだったのです。デュシャンのグリーンボックスを知らない人が現代美術を志すというのもすごい話ですが、今後はこの手の事例がどんどん増えていくような気がします。いや、そもそもこの国では、入沢康夫や吉岡実を読んだことのない人間が日本文学を論じているのですから…。
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