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’01NORD2人展 Z | 3月19日(月)〜24日(土) 札幌時計台ギャラリーA室(中央区北1西3) |
「NORD(=ノール)」はフランス語で「北」の意味。新道展に属するベテラン画家4人が1995年から毎年札幌と旭川でグループ展を開き、切磋琢磨するとともに、ブルガリアの子供たちに画材を贈るなどの国際的な活動にも取り組んできた。97年にはカナダ・エドモントンでも展覧会を開いている。
この2年間で、今荘義男(空知管内栗山町)と高橋英生(札幌。のち新道展退会)があいついで抜けてふたりだけになってしまったものの、そのむかし今金高校(檜山管内)の師弟だったというコンビの健闘により、メンバー半減の寂しさを吹っ飛ばしている。
丸山は、がらりと画風を変えた。近年はカエルの卵や蛍をもとにした抽象に近い画面構成に取り組んでいたが「同じことの繰り返しに思えてきて」1960年代前半にかいていたトウモロコシを再びモチーフとして取り上げた。その結果、具象的な画風になった。左の「少年とトウモロコシ」など、黒いトウモロコシと黄色いトウモロコシを画面にちりばめて、効果的な構成を探っている。その、衰えぬ造形上の探究心は「トウモロコシのコンポジション」などの作品にもあらわれている。一方「少年の想い出」は、サーカスがモチーフ。トウモロコシは登場しないが、画面の隅に蛍が飛んでいる。短いストロークを重ねた地の色はなんともいえない渋い落ち着きを現出している。
寒色系を中心に、はるかな雪原を思わせる北方的な叙情性を醸し出す佐藤の方は、基本的には変わっていない。青や薄紫は、鮮やかであるが、絵の具チューブからそのまま出したナマなものではない。マチエールのくふうのためにガーゼなどを貼っているが、これも画面から浮いてしまわないように細心の注意が払われている。
それでも、右の「想い」などは、流氷の訪れた海岸のような構図であり、ややこれまでの画面とは変化している。海のような青。さまざまな色が織り成す手前の平原。下の方に、小さく裸木が描かれているのがお分かりだろうか。この木が、画面にスケール感を与えているのだ。
筆者は一昨年の展評で、メンバーの共通点として「漆塗のような薄塗り」を挙げた。何度も重ねられた色彩の美しさは、今回も健在だ。
NORD展は10回までは続け、今後新メンバーの加入もあるという。グループ名は「北」であるが、北海道らしいモチーフを安易に描くのではない、真に北海道の風土を描き出すグループとして、今後も期待したいと思う。
丸山は1930年生まれ。佐藤は41年生まれ。いずれも札幌在住。
なお、7月23日から29日まで、旭川・雪の美術館でも開催する。
リレーレクチャー4000万キロ報告展 | 3月19日(月)〜25日(日)=正午から午後7時 フリースペース・プラハ(札幌市中央区南15西17) |
フリースペース・プラハで「リレーレクチャー4000万キロ報告展」が行われています。この、ギャラリーともオープンアトリエともいえる不思議なスペースを支えている有志でつくる「プラハ・プロジェクト」がこの1年間行ってきた4回のレクチャーについて、文章と写真のパネルで報告しています。パネルはちょうつがいで壁に取り付けられており、開くと、講師の肖像が壁に描いてあるのがユニーク。また、講師から借りてきた資料も並べています。ちなみに、講師は、北九州で現代美術のギャラリーを開いている宮川敬一さん、福岡で美術の屋外展示などさまざまなプロジェクトに取り組む山野真悟さん、テンポラリースペース(札幌)主宰の中森敏夫さん、建築と美術を架橋するような活動を続けているPHスタジオ(東京)の池田修さんです。
残念ながら筆者は一度も参加できなかったのですが、勝手な想像および意義付けをいたしますと、中森さんをよんだのは北海道の美術にとっていいことだったと思うのです。彼は、1983年にまだ無名だった(そしていまやもっとも有名な日本の現代美術作家である)川俣正さんを呼んでテトラハウスプロジェクトを行うなど、さまざまな展覧会を企画してきた人です(しかも、ほとんどの展覧会で立派な図録を残しているのがすごい)。ただし、リーセント美術館−CAIにつながる札幌の若手現代美術人脈とは、いままで意外と接点がなかったようなのです。
彼ら彼女らが北海道の美術の流れをある程度踏まえて活動を続けていくにあたって、中森さんから昔の活動も含めて、都市と美術の関係について話を聞いたのは、いいきっかけになったんじゃないかと思うんですよ。テトラハウスの写真記録がギャラリーの壁に貼られていたし、中森さんの回はぜひ出席したかったですねえ。ホント。
さて、同時に、このリレーレクチャーに本州から参加した磯崎道佳さんと、札幌の若手9人によるグループ展が行われています。実は、この日は、若手9人が自分をプレゼンテーションして磯崎さんがレフェリーを務めるという「アーティスト・サバイバル15分1本勝負」なる公開の催しが行われたのですが、時間の都合で見られませんでした。上の写真のリングは、プレゼンテーションの時に作家が立つ場所で、ガウンを着てやるんだそうです。
磯崎さんは「いつか、どこかで、あるいはつづくつづくつづく」と題し、色とりどりの六角形の薄い紙を糸につなげて小さな落下傘のおもちゃを作り、インスタレーションふうに陳列しています。楽しいな。
若手の作品。左は、けんちゃんこと谷口顕一郎さんが作る、ちょうつがいのついたシリーズの1点。例によって、壁の塗料のへこみに合わせた形です(左の写真で分かるかなあ)。彼は
「自分が線を引くより、面白い線が出来る。へこみやひび割れと、自分とのコラボレーション」
と話していました。この方法論は、板の木目に合わせて絵をかく美術文化協会の青山清輝さんに似ているような気がします。それにしても、作品サイズがますます小さくなってます。
面白かったのは進藤冬華さん「山びこ」。壁に貼った絵からイヤホンが出ており、耳に近づけると、山びこには似てない叫び声が聞こえてきます。出来合いの音楽を使う作家が多いなかで、肉声を用いたシンプルなつくりには好感が持てました。
この展覧会は、リレーレクチャーに参加した人も参加しなかった人も楽しめます。24日(土)午後7時からは、昨年の「ミュージアム・シティ・福岡」に参加した白戸麻衣さんによる「マイちゃんのラブラブ福岡日記」(なんちゅー題名だ)もあります。これも筆者は仕事で出られないけど。
ジャパン トゥデイ写真展 日本に向けられたヨーロッパ人の眼 |
3月6日(火)〜25日(日)=無休、無料 札幌市写真ライブラリー(中央区北2東4、サッポロファクトリー・レンガ館3階) |
北海学園大学U部写真部写真展 | 3月6日(火)〜11日(日) 札幌市資料館(中央区大通西13) |
あるいは筆者の考えすぎかもしれないが、どうしていま「ジャパン トゥデイ写真展」などというものが開かれるのか、どうも不愉快である。
この展覧会は副題にもあるとおり、欧州の写真家が日本の全都道府県に滞在して撮影するという、1999年から行われているプロジェクトで、欧州ではアビニョンとブリュッセルで、日本では撮影が済んだ北海道、石川、兵庫、島根、愛媛で、写真展が開かれている。
なぜ筆者が不愉快になるかというと、近代を通して、欧州側が常に「見る」側(=主体)であり、日本など非欧州が「見られる」側(=客体)であったという厳然たる歴史があるからである(この権力構造は、男と女の間にもある)。この構造をそのまま再生産することにいったいどんな意味があるというのだろう。
そして、予想したとおり、島根を撮ったフランチェスコ・ラディノなる写真家は、ラフカディオ・ハーンのつづった神秘的な日本像を現代に探し、それが今見つからないことに戸惑いを表明している。
やめてくれ。余計なお世話だ。あんたたちが西洋文明を押し付けてきたんだろう。日本が頭を下げて頼んだわけじゃない。もっとも、この写真家は、ガラスに映った映像を取り込んだり、二重露光を駆使するなど、自分の文法らしきものは持っているようだ。
北海道にきたヨハネス・バッケスとやらも、札幌の若者をテーマにして撮っているが、「ガイジンが来て撮った」という以外にはなんのとりえもない写真。まあ、フランスあたりで見せるには意味もあるかもしれないけど、そこらへんにいる若者の写真なんかわざわざ見たくないよ(輪をかけて不愉快なのは、こういう凡庸な写真を、海外の人間が撮ったというだけでありがたがる人間や、「だから日本の伝統を守る必要がある」などと言い出す人間がいることだ)。
ただし、そういう文脈抜きに見ると、写真自体は面白いものもある。愛媛を題材にしたゲリー・ヨハンソンは、植物ばかりを、執拗にとらえていた。
いちばん好感を持てたのは、石川県の小、中高生を学校で撮った写真だ(作者名が分からない。すいません)。となりの席の生徒が見せてくれた問題集をのぞきこんだり、給食のおかずの入った容器を友達と一緒に運んだり、難しい顔をして授業を聞く生徒たちの表情は、べつに日本だから、西洋だから、といった分け隔てのない、生き生きとした一瞬をとらえている。それは視線のあたたかさゆえだと思うのだ。
気分を取り直して…。
北海学園大U部写真部は、少なくても1990年代後半に限っていえば、札幌の大学写真部で抜きん出た力量を持っていた。多少金村勝を意識したともいえる、たくさんのプリントをびっしり壁に貼るインスタレーション的な展示手法は、若者らしいエネルギーにあふれていた。
牽引役だった衣斐隆らが今春卒業し、展覧会の雰囲気はだいぶ変わった。疾走感から、自省的な傾向へ―というところか。写真のなかみは、札幌の空撮、登山の経過、自画像などさまざまだが、最近よくある「なーんも考えずに友達をばしゃばしゃ撮ったスナップ」「自意識過剰なわりに中身のない自画像」の類がないので、気分よく見られる。
なかでも筆者が好きなのは、川真田健「bluenote.jpg」。雪の堆積場、夏のスキー場など、無人の都市の風景を中心に構成したカラー写真だが、これほどまでに都市の空虚さをとらえられる人はなかなかいないと思う。大通公園の空なんて、ほんとにあの賑やかな大通なの? と思うくらい寒々としている。この即物性は、森山大道とも金村勝とも少し異なる。強いていえば大西みつぐに近いか。1点だけ女の子のスナップが入っているのもおもしろい。題名はよくわからないが。
カラーは彼だけで、あとはモノクロであった。
坂脇智宏は、夏の小道を、地を這うような低い視線で、連続的にとらえている。人が写らず、建物や空や林だけがある画面からは、歩行者の荒い息や草いきれやじとっとした暑さまでが伝わってきそう。清水貴子は、冬景色や白鳥、裸木などを、どこか突き放した視線でたんたんととらえている。
川端理恵は、昨年までの北海学園大U部写真部の傾向を唯一伝えている。「残像」は夕張の炭鉱施設の廃墟を撮ったもの。「みちのく紀行」も、風景や土俗的なものへの関心が森山大道などを思わせる、骨太の作だ。
書のアンソロジー 第2回燎の会展 |
3月6日(火)〜11日(日) スカイホール(中央区南1西3大丸藤井7階) |
えーっと、美術関係者向けに書きます。間違ってることも書くかもしれませんが、ご勘弁を。
美術の業界と書道の業界の違うとこってどこですかねえ。公募展ごとの縦割りっていうのは書道ではみられない現象でして、例えば北海道書道展の会員が、全道書道展の審査員をやっています。まあ、全道書道展じたいは、関係者以外は見に行く必要のすくない展覧会ですが。
じゃあ、北海道書道展の会員というのはどうやってなるかっていうと、これは社中の代表者なんですね。この社中は、親からの世襲ということすらあるわけで、代表者だから必ずといっていい書をものすとは限らないんですけどね。当たり前ですが。
(上のパラグラフは、北海道書道展と北海道書道連盟と混同していましたので、削除します。すいませんでした。ただし、書道の世界で、親から教室を引き継ぐということはめずらしくないようです))
ただ、書は、技術が高ければいいとは、言い切れないんです。室町時代の高僧の書が珍重されるのは、手習いを一生懸命してうまくなったからではない。書以外の分野で精進した人の筆跡は、それ自体味があるという考え方のようです。明治期の政治家が重んじられるのも同様です。筆者には、西郷隆盛なんて、どこがいいのかサッパリ分かりませんが。
ほかにも、展覧会会場には花はダメで、祝電とするなど、いろいろありますが、前置きはこれくらいにして、「燎の会」というのは、国内では日展と毎日展を頂点とする書壇のネットワークを離れて活動するグループです。そのことが書風にどう影響しているのか、門外漢の筆者には正確なところは指摘できませんが、とにかく師の書風をやみくもに真似しようという傾向がないのは確かだし、また見る者にとってはうれしいところです。漢字やかな、近代詩文、書画まであってバラエティーに富んでいます。実は、社中の展覧会に行くと、みーんなおんなじような書風だってこと、けっこうあるんですよ。おっと、これは、絵画教室展でも、なきにしもあらずかもしれませんね。
で、渾身の力を振り絞った作品もいいけれど、「燎の会」の作品のよさって、ふっと肩の力が抜けたところじゃないかと思うんです。上の写真の左端は、長谷川白羊「方舟」。漢字が象形文字であったということがよく分かります。
筆者が好きだったのは、右の写真の左端、島谷雅堂「弧雲」。この曲線のリラックス感。いいなあ。
上の写真の右端は、切れちゃってますが、佐藤仙翠「権量銘」。臨書です。画仙紙をパネルに張ってすっきりしています。隷書の伸びやかさがいいです。
秋山真魚、小黒玉萪、井幡郁子、嶋中秀邦、富樫草臥の各氏も出品しています。
主体美術8人展 | 3月5日(月)〜10日(土) 時計台ギャラリーA、C室(中央区北1西3) |
秋の公募展第一弾として上野の森の9月を彩る主体展。昨春に札幌の道立近代美術館にも初めて巡回してきて、会員以外の道内作家11人を招待して陳列するという意欲的な企画に取り組んでいましたが、今回は初めて道内の2人と首都圏の6人のジョイント展という形です。各自3ないし5点を出品しています。
そういえば、1998年には、道内メンバー展と、名古屋の続橋守、東京の佐藤善勇、埼玉の石井公彦といった会員の個展を続けざまに札幌で開いて、主体展の存在をアピールしたこともありましたっけね。
道内からは江別の工藤悦子(新道展会員)と札幌の黒木孝子(全道展会友)。工藤さんは、生命をイメージしたいつもの抽象画ですが、持ち味の重ね塗りにますますみがきがかかり、とりわけ背景はなんともいえない色調をかもしだしています。黒木さんは、黄色が主体の抽象画という点では以前の通りですが、縦横に走る直線が強調され、画面がかなりすっきりと、シャープになってきたようです。
浅野修(鎌倉)は、98年にも個展を開いていました。「○△□」と題した作品は屏風形式で、黒を薄く塗った面が大部分を占める、ユニークな抽象画です。たしか前回、本人は「音楽を絵画で表現する」みたいなことを話していました。
斉藤望(千葉県茂原市)は、ポップかつ騒がしい画風で、一度見たら忘れられません。今回の「つぶやく」も、俯瞰気味に広角レンズでとらえた構図の中に、ルーレットを持ったサングラス姿の男性、扇風機、鯛、黒電話、らっぱ、カラス、コーヒーサーバーなどなどが所狭しとひしめいています。これまた例によって、男性を、まっすぐ伸びた紐が取り囲み、ともすれば散漫になりがちな全体をきちっと引き締めています。斉藤さん、確か道内の出身だったよなあ。
あとの4人は今回初めてじっくり見ました。中川奈哥子(横浜)はシュールレアリスムと分類していいでしょう。3つのキャンバスからなり祭壇画を思わせる「新大陸」は、中央に絹をまとって(と布の質感まで分かってしまう筆力はすごい)向かい合った二人の人物の地面が、中空に浮かび、ばらばらと崩れていく瞬間を描いています。左のキャンバスには、不思議な衣装を着た女性と、その足元には大きさの全く不整合な老人が二股のへんてこな望遠鏡を覗いていますし、右側では裸婦が大きなガラス球を持っている―という、全く謎めいた作品。裸の男女が何人も吊り下がった棒を両手に持った巨大な童女を描いた小品「おもちゃ」も不思議な作品。
中城芳裕(同)は、入り口のインスタレーションふう作品「国境を越える影」(写真右)のインパクトが強い。直方体の4面と、それに続く壁の、計5面に、それぞれ絵が描かれており、とりわけ、両手でぐっと扉を押し開ける男の後姿を描いた壁の絵は、力強いものがあります。ただし、本物の有刺鉄線を画面に張ってしまった点については意見が分かれるのではないでしょうか。
福田玲子(茨城県取手市)「萌し」は個人的に好きな作品でした。都市周辺の初春の湿地って、ほんとうにこんな感じなんですよ。黒焦げたようなヤチダモが立ち枯れていて、ごみが散らばっていて……。手前に描かれた小さな緑が、かすかな希望を表しているようでした。写実でありながら、よくある題材ではない。ある種の執拗さ(良い意味で)が好ましく思えました。
山本靖久(埼玉県新座市)「終りなき歌」。テンペラのような、初期ルネッサンスを思わせる画風が、目を引きます。両端の天使はもちろん、中央の風景画が効いています。
主体展とは (簡単な紹介を書いてみました) 主体美術協会は、1964年に創立、65年に第1回展覧会を開いた、比較的新しい公募展。部門は絵画だけ。 このへんの事情をあまり書くと自由美術協会の人には不評を買うのですが、戦前に創立した自由美術協会の運営に不満を持った38人が退会して、うち34人が旗揚げした。その中には、札幌の小谷博貞、八鍬四郎をはじめ、赤塚徹、寺田政明、中野淳、森芳雄、吉井忠、吉江新二といった顔ぶれがみえる。その直後、司修や堀内菊二ら39人が合流。さらに紺野修司(道展会員)、與志崎朗(深川出身。故人)らも加わった。 歴史の浅さが幸いして、陳列は比較的ゆったり。シュールレアリスム、抽象、写実など、さまざまな作風の作品が並ぶ。 道内関係者は、亀山良雄(のち退会。道展会員。故人)、野本醇(全道展会員)、香西富士夫(道展会員)、橋本礼奈(同)、塚原貴之(全道展会友)、渡辺良一(美幌在住)ら。 |
木村初江造形陶展 | 3月1日(木)〜6日(火) 大同ギャラリー(中央区北3西3大同生命ビル3階) |
「日録」でも書きましたが、いやあ、とにかく木村さんの個展の回数の多いこと。器の展覧会も入れると、年3回ペースだもんなあ。
で、まず、現代美術や絵画を含めた若い人に言っておきたいのですが(さいきんエラそうでゴメンネ。でも…)、回数ってけっこう重要です。たった1度の展覧会で関係者みなをあっといわせるなんて、ゼッタイムリだからさ。短期間に何度も作品を発表するというのは、インパクトを与えるのには意外と重要な要素です。
ほんでもって、左の写真ですが、手前の丸いのがずーっと並んでいるのが「移ろいゆく存在(いま)」。中央が「生まれでた空虚(もの)」。
表面がこぼちている球が、だんだん完全な球に近づいていきます。その果てに、大きな球が転がっているという構図です。たしかに、時間の移ろいを感じさせるインスタレーションです。
壁にかかっているのは、新しく取り組んだ「MAN&WOMAN」という陶板画。二つのふくらみが女性を表しているのは分かるけど、それを上下ひっくり返して男性の背中、というのは、正直いってちょっちツライのでは?(と本人にも言ってきました)
これらの作品がすべて焼き締めというのもユニークです。釉薬に頼らなくても、焼成の工夫でこういう近未来的というか金属的な不思議な感じが出るんだなあ。
ちなみに、パルコ2階の「カミシマチナミ」ショップで、9日から18日まで、木村さんの作品が展示されます。小生、女性のファッションブランドのことはよく知らんのですが、カミシマさんは札幌を拠点に活動しているデザイナーで、パルコに店を持っているなんてスゴイですね。どういうコラボレーションになるのか、ちょっと楽しみ。
多摩美術大学版画OB24人展 | 2月27日(火)〜3月4日(日) さいとうギャラリー(中央区南1西3ラ・ガレリア5階) |
多摩美大の版画科というのは貴重な存在だ。というのは、東京芸大と京都市立芸大、それにムサビ(武蔵野美術大)と女子美大には、版画科がないからだ。多摩美版画科OBで、札幌在住の友野直実・渡邊慶子夫妻の努力で、同窓生の作品展がだいたい隔年で開かれるようになり、今回で4回目。1992年から昨年までに卒業した24人が出品した。
作風はバラエティーに富んでいる。何人かに簡単にふれるにとどめたい。
杉山実はエッチング。少年がロボットの中に入って操縦している様子を描いた「さとるの花」など、ナンセンスで笑える作品が多い。
石原誠はリトグラフ。一見、タチの刺身みたいな、奇妙な模様をモノクロームで描くが、「人間模様」という通しタイトルがついているのが考えさせられる。
三瓶光夫もリトグラフなどによるモノクロームの世界。「玉響」は、曲線と黒い色班、細かい直線が織り成す、不定形の模様が面白い。
前回の、異様までにパワフルな線と構図が印象に残っている佐竹邦子は、今回「ひまわり」「風車」など、力よりもユーモアが目に付いた。技法は、ベニアによるリトグラフ。
ほかの出品者は、馬場満、鈴木康、島田北斗、伊達木明人、友野直実、西岡久實、野田青隆、渡邊慶子、大場真由美、澤村佳代子、宮尾知宏、木村麻子、大矢雅章、上田正臣、御囲章、鈴木良治、李順子、伊藤あずさ、サイトウノリコ
(文中敬称略。3月1日記す)
津田義和個展 第6回グループWHO展 第29回火曜油絵展 |
2月26日(月)〜3月3日(土) 札幌時計台ギャラリー(中央区北1西3) |
3つまとめて紹介するのは単に「日録」の欄で書くと長くなるからで、あまり深い意味はありません。
A、C室は津田さん。1995年から現在に至る絵画(日本画を含む)、回顧展的な個展です。
津田さんっていうと筆者は、一昨年の道展入選作「神威岬」あたりの印象が強いんですよね。海を、さまざまな色のごく細い線に分割して描いていました。ちょうど、スーラの点描を、線にしたような感じで、たしかに色彩は明るいんですが、筆者は、技法のための技法という感じがして、それほど好きにはなれなかったのでした。
近作の、とりわけヨーロッパの町並みを題材にした作品は、そうした技法を放棄し、丁寧なタッチで日向と日陰の部分をかき分けたうまい絵になっているのですが、そうしてみると筆者は勝手なもので、個性的な技法を採っていたころの絵のほうに軍配をあげたくなってしまいます。たしかに近作はうまい。細い線はなくても、スタティックな空気感はそのままです。ただ、どうしても、デパートで売っている絵のような感じがして、個人的にはあまり関心が持てないのです。申し訳ない。
もっとも、漫然とうまくかいている人よりも、技法の模索を通過してきたひとのほうがよりよい絵がかけるのかもしれません。今後に期待。
そうしてみると、B室のグループWHO展のほうが、いっけん素人っぽく見えて実は「絵画的」だったりします。
出品者は、石部セツ子、加賀ケイ子、笹尾ちえ子、時川旬子、松下比砂子、花山幸子、宝示戸美世の7人。時川さんは時計台ギャラリーでよく個展を開いています。大きな色面に画面を分割して抽象画をかく人。石部さん、宝示戸さんはちょくちょく全道展で見ます。
加賀さんの「恵庭岳遠望」は、近景の木々の処理がなかなかのものでした。笹尾ちえ子さん「沼」も、黄色に塗られた沼がおもしろく、いろいろ模索した末の構図なのだと思いました。
3階のDEFG室は、全道展会員の米谷哲夫さんが、道新文化センターで開いている火曜油絵教室の生徒さんたちによる展覧会です。全道展会友が佐藤説庫(えつこ)さんと福江文子さん。入選クラスは何人かいます。
その佐藤さんは「黄色のフィールド」などの抽象画を出品しています。意図は分かるのですが、ところどころに配された黄色は彩度が高すぎて、全体から浮いているような気がします(アクセントになっているという言い方もできるけど)。もうすこし画面を整理して、また、面積の広い色面と狭い式面を意図的につくれば、全体にリズムが生じ、たとえば晩年の小野州一さんのような世界が生まれるように思えます。
織田文子さん「街T」「街U」は、黒い縁取りを生かして、シャガール初期のようなのんきな町並みを描いた作品。筆者は、安直なクロソワニズムはきらいなのですが、この作品のように線自体に味があったり、色の塗り方に工夫があったりする絵は評価したいと思います。マチエールも凝っています。
馬場京子さん「天空のバラードT」「同U」は、青系の色を中心に、楽譜や曲線などをうまく生かしてファンタジックな世界を作り上げていて好感を持ちました。単に「雰囲気のある絵」だけに終わっていないのがいいですね。大きな画面でも、あまりごちゃごちゃかきこまずこの調子で行ってほしいです。
熊谷京子さん「ラベンダーの道」は、背景のシラカバの緑があまりにもナマな色彩であるなど、まだまだ素人っぽさが残る絵ですが、人物を大きく手前にどんと配した思い切りの良さが良いと思いました。線にも迷いがありません。
原田勢津子さん「静物」は、前景に生け垣、中央に梨や紙袋を配した構図がとてもリズミカル。縦横の格子の線と、斜めに伸びる喬木の青い枝を組み合わせたところなどは、とてもうまいです。
まだまだ書き足りないところはありますが、今回はこの辺で。
(3月1日記す。2日一部加筆訂正)
楢原武正展 大地開墾2001−2 |
2月20日(火)〜3月4日(日) ギャラリー大通美術館(中央区大通西5) |
(文中敬称略)
「うーむ。こう来たか」。
こんどのインスタレーションは、開拓地で切り倒された名も無き大木。あるいは「宇宙樹」である。
楢原は1942年生まれ、札幌在住。「大地開墾」のタイトルで、精力的にインスタレーションの制作、発表を続けている。
素材は、空き缶、使用済みの釘、廃材など。木には針金が巻かれ、あるいは鉄板が巻かれて黒く塗られ、空き缶はつぶされて板のようになっている。それらが山のように積み重なって、膨大な行為の集積として会場に聳え立っている。その量はいったいどれくらいになるだろう。トラック数台分あるのは間違いない。
筆者が、初めて楢原のインスタレーションを見たのは1996年。当時サッポロファクトリーに近いビルの中にあったリーセントギャラリーでのことだった。
会場を埋め尽くす廃材や金属片の山に、とにかく圧倒された。
写真で見る限り、80年代から90年代前半にかけての楢原のインスタレーションは、空き缶をつぶして球にしたものなど、ある程度造形への意志のようなものがほの見える。
しかし、97年の個展では、そういうものすら捨て去り、ひたすら行為の積み重ねの量で勝負していた感があった。まあ、山の形は、方舟みたいに見えないこともなかったですけど。
98、99年、リーセント美術館(=CAI)で開いた個展では、廃材のトンネルをつくってギャラリーの壁を埋め尽くした。前回、廃材の山を外から眺めていたわたしたちは、こんどは作品に取り囲まれる形になったのである。
いわば逆転の発想であった。
見る者は楢原が営々とこしらえ続けた物たちにすっぽりと囲繞されるわけで、それはすぐれて非日常的な体験といえた。楢原のパワーに四方八方からかこまれるのは、強烈な体験だったのである。
しかし、この手法を続ける限り、山にするか、トンネルにするか、2種類しかない。それに、ギャラリーに一度に運び込める材料の数が限界に近づきつつあった。
それに、鈍い金属の光沢を見せる廃材の山は、筆者には、開拓の大地というプリミティブなものよりもむしろ近未来の廃墟のようなものを連想させたのである。
まあ、本人がどう思っていたかは知らないが、少なくても筆者の目からはそう見えたわけで、次にどういう手を打つのか、非常に興味があった。
だからこそ、冒頭の呟きとなったのだ。
作者は昨年、同じ会場で平面作品に絞った回顧展を開いている(「てんぴょう」5号の吉崎元章原稿を参照)。
この会場は一昨年オープンしたばかりで、札幌の貸しギャラリーではかなり広い部類に入る。
あるいは、平面の展覧会の際に、次の個展の構想を練っていたかのもしれない。
今回の個展は、入り口に近いほうは、最近のインスタレーションとほぼ同じ光景が広がっている。
だが、後ろ半分は、黒く塗った廃材を素材にしながらも、入り口のほうとは全く眺めが異なる。床面に横たわる枯れ木のように、枝を張り巡らせているのだ。
大きい。”倒木”の長さは、10メートルを軽く超すだろう。
そうやって見ると、入り口のほうに向かって伸びる廃材は、木の根のように見える。
開拓の地・北海道で、これまで人知れず倒されてきた木々たち。あるいは倒れてきた人間たち。
今回のインスタレーションは、いわば、それらの木々や人間を鎮魂しているのではないか。
あるいは、そこまで言わなくても、楢原の視線は、この巨大な倒木の梢と同じ方向をさし、倒れていった人々や木々を、私たちに思い出させようとしているのではないか。
賑やかささえ漂う入り口部分に対し、後ろは、森閑とした雰囲気が漂う。
筆者は「宇宙樹」という言葉を思い出した。
文化人類学の本に出てくる言葉。いくつかの民族の神話で、世界の中心に位置するという巨大な木のことだ。
今回のインスタレーションには、世界を支えているかのような重厚さも感じるのだ。
つれづれ日録にも書いたし、こういう口調はあんまり好きじゃないけど、やっぱり特に若い作家には見てほしいと思う。最近の若い作家の作るものって、どうしてこせこせと小さいのだろうと思うことが多い。小さいものを作ってサマになるのは内藤礼ぐらいのものだ(おっと、これは暴言)。ぜひ楢原の個展を見て、パワーに圧倒されてほしいし、細かい技術の巧拙など問う気がなくなるほどのエネルギッシュな作品を発表してほしいと思うのである。
(2月24日記す)
北海道美術・1960年代の動向U | 4月15日(木)まで=月曜休み 道立近代美術館(中央区北1西17) |
実は、主に抽象画を取り上げたTを見ていないんですけど、それでもUについて語るのは許されますよね。
筆者のように1990年代後半から道内の美術を見始めた者にとってはけっこう興味深いです。というのは、60年代なんだけど、半数以上は今も活躍している作家で「へえー、昔はこんな絵をかいてたんだあ」と、新鮮だったりするのです。
たとえば、人体の一部を強調したユニークな人物画というイメージのある岸本裕躬さん。63年の「だだっ子(賎民)」は激しいタッチのアンフォルメルというか、表現主義的な作品。道展で、肩の力を抜いたような穏当な人物画を書いている豊島輝彦さんも59年の「廃船」では、舟や人の実在感を強調した重厚なフォルムを通して、海に生きる人を描いています。
この時代は、世の中全体に、今よりも社会問題や労働の実態とか、そういうことに関心が強かったようです。米坂ヒデノリさんの「呼ぶ」にも、沖縄返還運動などが反映していますし、19世紀の印象派やリアリズムといった手法で、そういう現実を切り取る「北海道生活派美術集団」にスポットを当てているのも、当時の風潮の反映ではないでしょうか。吉田豪介さんがさいきん「美術ペン」で、これまで書いてきた北海道の美術史を補う形でこの生活派を再評価する記事を書いていることとも符合します。大月源二の「干し草積み」は、昨年出た好著「画家 大月源二」(金倉義慧著)にも詳しく出ていますが、この絵について、娘さんが言ったように、大月はうますぎる。ホント。
館内には生活派の、当時の展覧会小冊子などの資料も展示されています。当時の写真もありますが、第1回から10回まで皆勤賞で参加している平山康勝さんの若いこと!(平山さんは現在も「6翔会展」「十九の会」などで健筆をふるっています)
それにしても、神田日勝「室内風景」は、何度見てもすごい。すごいけれども、整理部の人間としては、本物の新聞とはいろいろ異なるレイアウトが目に付き、気になるのです。どうも、記事より広告のほうに気を入れて写生したようにすら思えます。神田一明さん「赤い室内」は、絵の具の塗り方やどっしりしたフォルムの捉え方が、弟の日勝とよく似ています。
ほんでもって、前も「elan」誌に書いたので、これ以上道立近代美術館(近美)に対して批判めいたことを書いても仕方ないのかもしれないんですけど、やっぱり小生としては、例えば40年後に「1990年代の動向」を展覧しようとして、近美は果たしてできるのかどうか、それが最大の心配事なのです。60年代と違って、主要グループ展を押さえればある程度チェックできるというわけでもなし、年表づくりとか難しそう。まあ、このHPが、未来の学芸員諸氏に少しでも参考になれば、本望なんですが。
石川ひと白黒写真個展 | 2月18日まで サッポロファクトリー・レンガ館(中央区北2東4) |
先週おなじ会場で北星学園大の写真部の展覧会やってたんだけど「うーん、大学の写真業界は、やっぱ衣斐隆くんが北海学園大を卒業しちゃった欠落はでかいよなあ。自分で現像焼付けやっているのはえらいけど、スポッティングちゃんとやれよなあ」なんて生意気なことを考えさせられる結果に終わって、石川さんも北星の写真部(この春卒業)ってことで、正直言ってあんまし期待してませんでした。それが、うれしい期待はずれ! いやあ、いいじゃないですかあ。
作品の半分以上はセルフポートレイトなんだけど、すごく表現したいものを自分の中にちゃんともってる感じがするんだよね。とくに、左の「暗室」の連作もそうなんだけど、二人の自分が写ってるのが多い。見ている自我と見られる自我。ほんとの私と演じてる私。元気でいる自分とわけもなく落ち込んでる自分。そういう、若い人ならではの、自分への強い関心がうまい形で、写真に結晶してると思うんだ。
演じてる私ってことでは、連作「桜の下に春死なむ…」も、和服を着飾った自分と、カラスの止まった桜の木の写真を交互に並べ、演劇的な効果を出している。
ペンライトか懐中電灯を持って文字の形に光を走らせた写真もあります(まあ、佐藤時啓の点を線にしたと思ってください)。それにしても、まあ、好き嫌いかもしれないけど、光を隠した雲の写真に「世界の終わり」と命名し、周囲をギザギザにして焼き付け(特別な焼き付けの器械が大学にあるらしい)、古い壁時計とジャズの映画のポスターを一緒に撮るセンスのよさには脱帽しましたよ。
ただし、若いという表現衝動はそう長続きしない。そこで、どういうふうに表現を持続させていくのか。志はすごくあるみたいなので、石川さんの門出とこれからを期待して見守っていきたいと思います。
ファブリツィオ・コルネッリ”Sognatrici” | 2月9日(金)〜18日(日) CAI(中央区北1西28) |
札幌アーティスト・イン・レジデンス実行委が招聘したイタリアの作家です。詳しい経歴等はそちらのHPにゆずりますが、うーん、こりゃ分かりやすいぞ! とかく分かりづらいといわれる現代美術ですが、これはシンプルで分かりやすい。そして不思議な美しさがあるのです。
写真だと、壁に女性の顔が描いてあるように見えますが、実はこれ、幅数ミリの金属片を貼り付け、下からライトを当てると金属片の影がこういうふうになるんですよ。まさか、偶然できた形がこんな効果を生むのだろうかと思って本人に聞いてみたら、さすがにそんなことはなくて、ちゃんと、出来る影を計算して作っているそうです(当たり前か)。
ついでに札幌の印象なんかも聞いてみたら
「新しいマチ。イタリアは古いマチばかりだから面白い感じます。イタリアはアートも古いものがいっぱい。札幌はプラハや芸術の森に新しい芸術があって、興味深かった」
というようなことを話していたようでした(英語力の限界)。
会場には、卵を使った小品もありましたが、これはガチョウの卵(本物!)だそうです。
なお、本人は写真のコントラストなどを非常に気にしていましたが、Mr.Corneil,Do
you like contrast and tone of this photograph? I used "PHOTO SHOP
DELUXE" for correct this picture.
出田郷個展 |
2月7日(水)〜18日(日) 道教大札幌校講義棟1、2階(北区あいの里5の3) JRあいの里教育大駅から徒歩15分、バスで4分。それよりも南北線麻生駅・麻生ターミナルから麻24番「あいの里4の1行き」か、東豊線栄町駅から栄21番「あいの里4の1行き」で「教育大学前」下車のほうがおすすめ。渋滞してなきゃ30分。創生川沿いの中央バスターミナルから22番「あいの里4の1行き」も1時間に2本あるが、所要1時間は覚悟必要。正面の門から入ってすぐの、中央を貫通できるようになっている建物の左側の翼です |
(詳しくは4月17日発行の「てんぴょう」7号をごらんください)
道都大学デザイン学科有志展 ―伊藤隆一先生を偲んで |
2月12日(月)〜17日(土) 札幌時計台ギャラリー(中央区北1西3) |
伊藤隆一さんが亡くなられたのは昨年である。 どうしても解せないというか、許せないのは、北海道新聞をはじめ道内で発行されている各紙誌で、まともな死亡記事や追悼原稿を掲載したところが皆無だったことだ。 伊藤さんは1933年、札幌生まれ。東京芸大を出て、道教大教授になった。 北海道デザイン協議会の代表を務め、長年デザインの普及啓蒙活動に果たした役割は大きい。その延長線上として、冬の生活を楽しむ北欧のライフスタイルの紹介にも力を入れ、北海道フィンランド教会の代表を務めるかたわら、北海道新聞社から出したエッセー集「北の生活宅配便」はちょっとしたベストセラーになった。実作者としても、札幌市南区の石山陸橋付近のモニュメントや、千歳空港入り口のトンネルの壁面のデザインなど、あちこちのパブリックアートを手がけている。また、道教大やその後勤めた道都大では、道内の漆芸の先駆者的存在として後進の育成に力を注いだ。さらに、美術出版社からは木彫の入門書まで出している。とにかく活動の幅広い、話術の豊かな人だったのだ。道新などは、各種行事の司会などで生前さんざん世話になっておきながら、まったく冷たい仕打ちである。若い人が個展をやっているギャラリーにふらりと現れ、野球の話などでそこにいる人を笑わせ(大学では野球部の顧問もしていたのだ)、若者を励まして早足で帰っていた伊藤さんの姿を今でも懐かしく思い出す。 さて、今回の展覧会では、伊藤門下の漆作家のうち、道都大関係しか出品していないのだが、山崎友典が質量ともに他を圧していた。筆者は漆芸の色の出し方はよく分からないのだが、一双二曲の「恒」の中間色の使い方はさぞ難しいのではないかと思われる。雲のような曲線と小さな三角や丸をバランスよくおさめた抽象作品なのだが、構図的にも実にバランスが良いし、螺鈿の配し方もきまっている。その一方で水鳥の夫婦を題材にした「睦」など、具象的な作品も手堅くまとめている。 イラストレーションではやっぱり三上いずみが面白い。たんすをアパートに見立てた「チェストハイツ」など、とにかく笑える。佐々木龍大「浄土ヶ浜」「轟木」は、色彩の乱舞する絵にコラージュを配したが、不思議と統一感がある。 神田真俊はシルクスクリーンを7点並べた。「デトロイト」「クォーク」「バズ」「ダルク」「カサブランカ」「リボルバー」「ロジック」。遺跡、電車、人物、風景などさまざまな要素がコラージュされたポップな作品だが、これも比較的に左右対称の構図が効いて、統一感があるのだ。面白かった。 ただし、伊藤さんの名前がタイトルにありながら、彼の業績について言及したパネルがあるとか、プリントが配られるといったことが一切ないのはどんなもんだろうか。 |
ART MEETS 2001 7Rooms | 2月12日(月)〜24日(土) フリースペース・プラハ(札幌市中央区南15西17) |
こんばんは、まずこの「ART MEETS 2001」というヤツなんですけど、3つのプロジェクトからなっておりまして、1つがこの「7Rooms」という展覧会。2つめが、これはぼくは仕事で行けなかったんですけど、6日にもう終わった、札幌アート・イン・レジデンス実行委の招きで滞在中の韓国のアーティスト、コー・ナッポンさんの制作中の作品公開と解説。3つめが24日に、地下鉄東西線宮の沢駅からすぐの「ちえりあ」で開かれるシンポジウムということなんですね。余談ですが「ちえりあ」は、生涯学習センターの愛称でありまして、けっこうな数の美術作品が常時展示されているらしいですよ。
で「7Rooms」なんですが、これまでプラハはいろんな使われ方をしてきたわけでして、近年は入り口の部屋がギャラリーにもっぱら用いられてきたのですが、またこの春から運営形態が変わり、1階がアトリエになるらしいんですわ。そこで、1階の部屋が一時的にあらかた空く引っ越しの時期を狙ってこの企画が立てられたっていうのが実情みたいです。
さて、これまでもギャラリーとして使用されてきた空間なんですが、なんと、コーさんが青系のストライプに塗ってしまったのでした。コーさんは、あちこちで既成の絵画の色素を分解し、ストライプにして表現するという活動に携わってきたのですが、札幌に来て取り組んだ対象は林竹次郎の「朝の祈り」。いやあ、目のつけどころが鋭いねえ。エッ、この絵を知らない? チッチッチ(指を左右に振る)、道外の人なら致し方ねえが、道内の美術ファンで「朝の祈り」を知らないたあ、モグリといわれても仕方ないぜ(急に態度がでかくなる)。林先生はだな、旧制札幌一中(現札幌南高)の美術教師として三岸好太郎らを教えた方で、「朝の祈り」は北海道から初めて帝展に入選したという由緒ある絵なんだよ。母子4人がちゃぶ台の周りで敬虔な祈りをささげているという、なんともバタくさい題材で、ここらへんに北海道の歴史の特殊性があるんだろうけど、けっこう一般の人気のある絵で、この作品を所蔵する道立近代美術館には年に何回か電話で「朝の祈り」がいま見られるかという問い合わせがあるという話を以前聞いた。
そいで、その反対側の壁には、現代の「朝の祈り」として、親子がテレビゲームの画面をぼけーっと見ている絵をかいて掛けたんだから、しゃれが効いてるねえ。コーさん自身は「朝の祈り」の画中人物に合わせて学生服を着てきました。1970年代末あたりから韓国の学校も服装が自由化されましたが、コーさん自身は学生服で通った世代で、「朝の祈り」についても「ノスタルジック」と話していましたよ。
正面の壁には青系だけで描かれた2枚の絵。左は、韓国で大ヒットした映画「love
letter」の中山美穂のイメージ、右は、やはり映画の「鉄道員(ぽっぽや)」の高倉健のイメージということですが、この健さん、なんだか、アーティスト・イン・レジデンス実行委事務局の本間さんに似ているなあ。韓国の人にとって北海道とは、映画を通してちょっとエキゾチックな土地に見えているのかもね。
残りは駆け足でいきましょう。おっと、その前に、この部屋の中にも、若手作家の写真やビデオがあります。テーブルもそうですよ。でもって、右側のスペースには、谷口顕一郎くんの作品の、例のちょうつがいを使った黄色い作品があります。今回のちょうつがいはもともとあったドアのものを利用しています。けんちゃんは、ある特定の空間の制約というものに関心があるようですが、じっくり話す機会がないんだよなあ。
コーさんの部屋から左側にはいくつかの部屋があり、札幌在住の作家が新作を発表しています。
最初は、元ボイラー室に置かれた伊藤隆介さん「SATELLITE TV」で、丸いスクリーンに月を投影しています。コーさんが韓国人ということで、韓国出身のナムジュン・パイクの作品「月は太古のスクリーンだ」に対するオマージュということのようです。
続いて、真っ白に塗られた部屋は、元キュレーターでもあるコーさんが選んだ若手作家の部屋です。しかし最大の作品は実は戸外というか、庭にあります。札幌高専の学生、佐藤しのぶさんが1月24日から営々と雪を積み上げて中を掘った「プラネタリウム」という名の巨大なかまくらです。コンセプトを聞いたら本人はぼそっと
「アースワーク」
と言ってました。うーん「WHITE」というテーマでアースワークをやろうとしたらこうなるかもねえ。ほか、川村亜矢、竹田浩史、中勇次、野上裕之、長谷川裕泰。
さらに奥に行くと「cafe±0」があります。この春道教大を卒業する(あれ、大学院修了だったかな)白戸麻衣さんと谷川よしみさんがカフェというテーマでコミュニケーションを軸としたアートを展開するわけですが、なんと! 1年間、毎週土、日午後2時からここで喫茶店をやるんですって。ずいぶん長丁場のアートであります。いずれじっくり話を聞きに行くからね。
続いては、坂東史樹さんの5分間の映像作品「presence」(音響は畑中直人さん)。会場には4人までしか入れません。しかも中はまっくらです。こういうのはここでネタを明かさないほうがいいのかなあ。それにしても坂東さん、久しぶりだよね。98年、上野の森美術館で発表して以来ではないでしょうか。
最後は、半分屋外みたいなさむーいところで、ひたすらガスバーナーで地面を燃やし続ける男、そう、さいきんドトーの勢いで発表を続ける古幡靖さんの「The
last one you are given」です。雪をとかして春を早く呼び寄せるためというわけではないようです。火というのは見てて飽きませんね。筆者は、1986年の「ハラ・アニュアル」(東京・港区の原美術館が毎年行っていた、注目の若手を集めたグループ展)で、遠藤利克の火を用いた作品を飽きもせずにじーっと見ていたときのことを思い出しました。しかし、会期中は、見えるのは火ではなく、火の痕跡なのです。わずかな火の痕跡を探し出すこと。それは、あるいは、火そのものを探し出すよりも、希望に近づいていく作業といえるのかもしれない。
第1回三岸好太郎・節子賞展 | 1月27日から3月25日 道立三岸好太郎美術館(札幌市中央区北2西15) |
いま、絵画の賞を始めるということにどんな意味があるのだろうか。
安井賞なきあとの美術業界で、取れたからといって俄然ハクがつく賞があるとも思えない。この賞をとったからといって、すぐに画商から注文がどっと舞い込んだり、号当たり単価が倍になったり、「美術の窓」「月刊美術」といった美術ジャーナリズムの取材が相次ぐ―といった事態がおきるとも考えがたい。もちろん、絵をかく人の励みにはなるだろうが。
自分が勤める会社が始めた事業にあれこれ文句をつけるのも大人気ないと思うが(笑)、この賞がいまのわが国の美術シーンに何か寄与するものがあるのだろうか、と考えると、なんだか、始める動機がよく分からない事業のように思えるのである。
「つれづれ日録」にも書いたが、道内では、3大公募展(道展、全道展、新道展)の枠を超えた絵画展を見る機会が、東京・関西はもちろん九州や北陸などに比べても圧倒的に少ない。「全国区」の「絵画」の水準を知る場という意味では、こういう賞も意義があると思う。ただ、応募者が公募展に属していようといまいと「公募展的絵画」であり、いわゆる「現代美術」とも、デパートで売ってるたぐいの絵画とも、ほとんど縁のない作品ばかりが期待されているし、実際、集まっている。
ただし、少なくても道内の画家の多くは、道内と全国の公募展に出すため年最低2枚の大作を仕上げねばならず、場合によっては「さっぽろ美術展」などにも出品するため、さらにもう1枚大作をかくというのは、実際問題としてかなりシンドイのではあるまいか。
さて、図録の最後に、酒井忠康・神奈川県立近代美術館長ら審査員5氏による座談会が掲載されていて「いい作品がなかった」と口をそろえて言っているのが面白いが、筆者は、そう悲観したものでもあるまいと思う。ただ、数点「どうしてこんなのが」というのが展示されている。
好太郎賞は、永野曜一「空知野」。心象風景にも似た景色を茶系を主体に描いた。風景画とも抽象画ともとれ、画面に広がりがある。
節子賞は、森本学史「チグリス」。こちらは赤をベースに、白などが勢いよく躍る抽象画。爆発的な筆勢をあまり広くない画面に上手にまとめている。
入選作。審査員の間では、石掛泰和「サロメの記憶」の評価が高いようだが、筆者にはどうにも巧すぎるように感じられた。伊藤和仁「ELEGIA」も良い絵ではあるが、どこかで見たような構図のように思え、新鮮味には乏しかった。
筆者は、椿野浩二「黙」が土のひびわれのようなものを通して年月の重みを感じさせて、好感を持った。この人、たしか前回のリキテックス・ビエンナーレでもかなり上位に選ばれた人である。また、先週大丸藤井スカイホールで行われた「アクリル・アワード」でも入選して展示されていた冨樫明裕「FORM8.00」も、種類の異なるカンバスをつなぐという手法が面白い。ただ「アクリル…」と同様、画面上方が、勢いある筆遣いで充実した空間を現出させているのに比べると、左下の処理はどうにも中途半端ではないか。
道内からの入選作では、山本勇一「夜明け(道)」が好きだ。右側で折れ曲がる道や、全体の素早いタッチや、表面に張られた紙が、なにか切実さのようなものを感じさせる。画面の手前の大半を占める平らな色面があるいはもったいない(=有効に活用されていない)といううらみは残るが、カンバスの端の処理も、審査員には不評のようであるが、筆者にはむしろ好ましかった。中橋修「AREA」も、白っぽい地に、1枚の紙のようなものが浮遊しているだけの簡素きわまる画面で、ずいぶん思い切ったと感心した。中橋さんは近年立体作品の個展が続いており、平面を見るのは久しぶりだ。
もちろん、西田靖郎、白鳥洋一、瀬戸英樹も、高水準の作品なのだが、審査員のうち3人は、ある程度見慣れた絵であるため、新鮮味に欠ける不利な点は、あるいはあるかもしれない。
美術館のパネルにひとこと。作者の居住地が県別の表記になっているが、道内の展覧会で「北海道」という表示はないでしょう。あるいは展覧会が巡回したときにパネルも使いまわすのかもしれないが、せめて「北海道函館市」「東京都八王子市」くらいまでは表示してほしいと思った。