b. 「「あなた」と出会う」(横浜港南台教会誌「若木」1997.10.5から)

 イエス・キリストは「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と嘆いています。聖霊降臨日、聖霊を受けて説教したペトロは「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めています。パウロはフィリピ書で「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」と書いています。神の愛と正義と公平を信じる目から見れば、いつの時代も「よこしまな、邪悪な、曲がった」時代として写るでしょう。神の光から人間の罪の姿が黒々と見えるからです。しかし私たちの生きている現在、信仰・不信仰に関わりなく誰もが「異常な」時代と認めざるを得ないと思います。私は中でも、子供たちのねじれた苦しみの訴えに心が痛みます。暴力、いじめ、不登校、自死など、そして神戸の少年殺害事件は形は違いますが、「自分自身になれない」苦悩という点では同根の病と言えます。子供たちは好んで病になる訳ではない。時代の苦悩は弱い子供たちにしわ寄せして表われます。ですから、子供たちの問題は大人、あるいは大人社会の責任と言っても過言ではありません。

 戦後の貧しさからの脱却は当然の求めです。しかし、その歯止めがなくなり、豊かで、大きく、強く、美しいものだけを「是」とする価値観でつっぱしってきました。それは貧しく、小さく、弱く、醜いものを無視、差別、抑圧することを黙認するようになりました。無視、差別、抑圧された者は「私は生きていていいの」という悲劇的なつぶやきを吐いています。そこでは「自分自身になること・アイデンティティーを確立すること」は絶望的です。このような構造を生み出した根は、人間を共にある「隣人」ではなく、自分に利益をもたらすかどうかで測る「物」として見る、人間を「物」化することにあるのではないかと思います。マルチン・ブーバーは他との関わりを「私とあなた(隣人)」と「私とそれ(物)」に分類しています。「私とそれ」の関係は冷徹であってよいでしょう。しかし「私とあなた」であるべき関係が「それ」になった時、「自分の場」を見つけることはできません。人間は「あなた」を見出す時、「私」になるものとして創造されています。創造主である全能の神を「あなた・Du」と呼び、この方との関わりにおいて、隣人は人格を持つ「あなた・du」になるのです。「あなた」との出会いを見出すところから共に生きる「喜び・福音」が始まるのです。

(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)

最終更新日 2018.10.28