a. 「神が人になる」(横浜港南台教会誌『若木』1983.12.25から)
人は誰でも心の中の深いところで、人間を真に超越している神様と言われる方はおられるのだろうかと問うています。人間の歴史はある意味では、この神の存在について問い続けてきた歴史であると言ってもよいでしょう。
ある人々は神の存在を信じてきました。宇宙や自然の秩序正しい運行、又世界で起こるさまざまな出来事を見る時、神の存在を信じざるを得ない。そして、人間の側からの問題としても、自分の生き方を正す、自分の遭遇する悲しみや苦しみをやわらげ、それらを乗り切るためには、どうしても神の存在を必要とする。そのように考え神を信じ、神に従う生き方を求めた大勢の人がいます。
しかし、逆に神の存在を激しく拒否した人もいました。自然の秩序は必然的な進化であって、何の不思議もない。むしろ神を信じることによって、歴史はねじ曲げられ、更に深い悲惨を生んできた。神を否定することが、人間を解放し、歴史を正すと考えた沢山の人もいます。
人間にとって、最も重大な関心事であるこの神の存在について全ての人に納得させるだけの充分な根拠を示し得る人はいません。それは、神を見た人がひとりもいないからです。
聖書は、どうして見えない神を認識し、どのように信じていくと言うのでしょうか。 聖書の立場は非常にはっきりしています。聖書では、まず生ける全能の神がおられます。しかしこの方はあまりに高く、人間には理解する術がありません。そこで、神はひとり子イエス・キリストを人間の姿をとって、この世に送って下さいました。神が人になられたというのです。私共は、この人になられたイエス・キリストには親しく見聞きすることができます。
聖書はイエス・キリストを見、イエス・キリストに聞いた者は、すなわち、神を見、神に聞いた者であると語っています。神はどこまでもイエス・キリストを通して知り、かつ結びついていけるのです。
さて、ヨハネ福音書一章一四節で、この神が人になられた奇跡を「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」と話しています。この「言」は神のひとり子イエス・キリストのことです。ヨハネ福音書は、その冒頭で、神の言であるイエス・キリストは世のはじめから存在し、神と共にあり神御自身であった。そして、全てはこのイエス・キリストによって創造された。だから、イエス・キリストは人の命であり、やみを征する光であると格調高く語り出しています。
そして、一四節でその神の言であるイエス・キリストは、肉体をとり、私共人間の世界に下り給うた。永遠なる神が、時間の中でうめき苦しむ私共のただ中に生まれて下さったと告知しています。
クリスマスの意味は「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」という聖句に言いつくされています。神のひとり子イエス・キリストは私共を罪から救い出すため、自らを低くし、人となり私共と同じ姿になられたのです。しかし、この方は神御自身でした。神であられたイエス・キリストが人となり給うたことによって、私共はこの方を通して、永遠なる神を知ったのです。まぶねの中に生まれ給うたクリスマスの出来事は、神が私共のただ中に生きて働き給うことのしるしです。マタイ福音書は、このことを「インマヌエル、神われらと共にいます」と語っています。神が人となり、私共と共にいて下さる。ここに、私共の生の根拠があり、歴史を支配し給う神を見ることができるのです。
イエス・キリストの御降誕は、人間とその歴史を一新する神の啓示の奇跡なのです。この奇跡を、信じ受け入れ、クリスマスを心から祝いたいと思います。
(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)
最終更新日 2018.10.21